年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語96森田思軒

2010年02月19日 | 福神漬
森田思軒 谷口靖彦著より
根岸派の人達が旅行(親睦旅行)の時、森田思軒が福神漬を出して酒を飲んでいたことを『露伴と遊び』の本に書いてあった。具体的に福神漬が当時の文化人が食べていた唯一の証拠である。この本で彼の業績を知る。明治の翻訳王とも言われたようで根岸派の人達は幸田露伴や岡倉天心を除くと今では忘れ去られた存在だがそれぞれの出身地ではかなりの評価をされているようである。
 明治30年秋、腸チフスを患い、11月14日36歳の若さで亡くなった。死の病床に森鴎外と鴎外の弟(医師)三木竹二も立ち会った。酒のための薬がよく効かなかったという。福神漬で酒を飲んでいたのでしょうか。
根岸の森田思軒
 明治19年頃には饗庭篁村が根岸に住んでいた。明治22年から23年にかけて饗庭篁村の隣に森田思軒が引っ越した、また岡倉天心・新婚の森鴎外も一時根岸に住んだ。汽車の音とか仕事の関係で次第に離れて行き最後まで根岸に残ったのが森田思軒だった。(森田思軒とその交友)
 根岸党の人たちは歌舞伎評論化が多く、劇評をしていた饗庭篁村らが次第に京橋に移転し、さらに向島にあつまったという。向島に江戸派が集結したともいえる。森田思軒は根岸にずっと住み世尊寺(東京都台東区根岸3丁目13−22)に葬られた。大隈重信と交友があってそこに出入りしていた小栗貞雄によって森田思軒のことを大隈家の「高等食客」と評していた。森田は食通でもあったという。また小栗貞雄は森田思軒のことを大隈家の「高等食客」と評していた。明治30年黒岩涙香(萬朝報社主)宅から帰ったあとチフスを発病した。黒岩は若くして死去した森田の遺族の後々まで面倒をみていた。

みとりの記 小栗貞雄
 昭和4年8月小栗上野介遺児国子夫人が亡くなったとき、夫小栗貞雄が親しい人に送った故人の思い出の記録。群馬県立図書館所蔵 上毛および上毛人より
大正4年9月横須賀造船所50周年記念で皇后陛下から御下賜金をいただき、小栗上野介の遺族は罪がなかったのを確信したという。
 普通有名人の子孫のその後はあまり知られていないが小栗国子の一生はこの『みとりの記』でよくわかる。彼女の体重が一生10貫(約38キログラム)を越えることがなくいつも9貫ぐらいだったという。小柄で病弱な体でよく62歳まで生き、一子を儲けた。汚名をそそぐことが彼女の生きる希望でもあったのだろうか。
 明治になって小栗上野介の叙位が見送られた時、小栗貞雄の言葉『古来価値ある人は人間でも神に祀られている。神に祀られるを識者が評して、自然と世の中に重きをおく様になる。加藤清正が清正公として神になっているのに人間が正三位としているのがおかしい。正一位ではないか。』

 国子の交友関係で大隈信幸夫人・村井弦斎夫人がいた。しかし夫貞雄氏によると結婚まで旧習を尊び肉などはあまり食べなかったという。大隈重信の保護を受けていたのに食のことは重きを置いてなかったようであった。結婚後、夫貞雄氏の影響で徐々に食が変った。
 小栗貞雄は矢野龍溪の弟で、維新後、三井の三野村利左衛門が国子の面倒を見ていたが明治10年に彼が亡くなる時に大隈に国子が成人するまでの保護を依頼した。大隈重信が小栗家の血筋が絶えることを憂い、口説き落としたものである。
コメント
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