年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語98榎本武揚と佐久間貞一

2010年02月21日 | 福神漬
榎本武揚と佐久間貞一のこと
榎本武揚は1836年下谷御徒町で生まれた。
佐久間貞一は1848年下谷南稲荷町で生まれた。
二人とも下級武士の出身であった。両者の接点は戊辰戦争のときは無かったと思われるが
1890 年(明治23年)3月1日に、それまで文部省が行っていた教科書編纂・出版事業を民間に払い下げる時、佐久間が払い下げ会社の定款作成を行い、教科書の大日本図書がスタートした。その当時の文部大臣が榎本武揚で付き合いが生じたと思われる。初代社長は佐久間貞一で、大日本印刷の創業者でもある。
佐久間が生まれた下谷南稲荷町は昭和40年(1965)の住居表示で東上野二・三丁目および元浅草二丁目になった。
 両者の共通点は佐久間が彰義隊に参加しており、榎本とは旧幕臣の心情が一致していた。更に佐久間が天草で移民事業をしたことと榎本の北海道開拓事業も共通していた。
榎本が外務大臣の頃、つまり明治24年頃ニューカレドニアのニッケル会社から労働者供給の依頼があり、国内の信用ある企業と外国人企業が移民契約を結び、そしてその日本人企業と邦人労働者との間に移民契約を結ぶ形で移民事業が許可された。信用ある会社として
榎本は日本郵船の吉川泰二郎と佐久間貞一を結び吉佐移民会社を設立させたと思われる。

日本郵船関係者と旧幕臣との連合で作られた吉佐移民会社の移民船に福神漬納入関係の資料は今のところ見つかっていない。それどころか明治24年ニューカレドニアに向かった広島丸の積載物の中身は幕末の咸臨丸がアメリカに向かったときの漬物と同じ種類の漬物だった。紅しょうがは咸臨丸には無かったが。明治24年当時福神漬がまだ一般的でなかったという証明かもしれない。
 下谷区茅町の三菱と下谷出身の旧幕臣が郵船に福神漬を紹介したルートの一つとも考えられる。カラーライスと福神漬の関係でどこがいつ郵船に福神漬を積ませたかが問題である。日本郵船の船に積載されれば食物が船客に提供されるのは時間の問題であった。

コメント
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