年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語97奥村繁次郎

2010年02月20日 | 福神漬
奥村繁次郎と漬物
「下谷御徒町にこれを名代の大芋屋、主人は通称芋繁で通った奥村繁次郎氏、いつの間にか古書の趣味を持って有名な古書通、なかんずく食物の研究に熱心で『食類辞典』の著もあり、イモ恩人昆陽先生の建碑にも尽力したが、後年湯島切り通し下に転じ、相変わらずかまどの前で古書を耽読、全く珍しく篤志家で、ただの芋屋とは思ふと罰があたる」 ――山本笑月『明治世相百話』
奥村繁次郎の本を読むために味の素『食の文化センター』に向う。彼の著わした『野菜果物魚介 諸国漬物法』と『蔬菜魚鳥漬物法二百種 (初版1912年)』を出してもらった。貴重書との事で鍵のかかっている書庫から出た本の中身は単なる漬物のレシピで大正の初めの本にも関わらず福神漬に関しては分類できないと書いてあった。
奥村繁次郎の家に今の人類学や民俗学を学ぶ人達のたまり場であったようである。焼き芋を食べながら奥村は日本の食文化を語っていたのだろうか。

春城師友録 市島春城著
奥村繁次郎のこと
大正8年12月16日にチフスで亡くなったという。蔵書家で名が通っていた芋繁は御徒町で焼き芋屋をやっていた。今の東京でもやっていることだが路上にある植木鉢にローマ字で植物名が書いてある木札がさしてあった。
 芋繁は商売柄、植物学を極め、研鑽造詣が深く、したがって食物料理に通じていて、食物博士などと呼ばれていて漬物の本も何冊か書いている。
 湯島天神下に移って『食物辞典』などの編集に取り掛かっていた頃、髭を生やしたころから商売が不調となっていったという。学者先生になってイモの仕入れが甘くなって焼き芋屋の商売が不振になったという。

根岸党のなかに楢崎海運という人がいる。海運橋の袂にある紙屋。役者、芝居者の冊子を集めていた。『森羅万象』という切り抜き帳に役者ごと年代別に分類してあるという。海運の親がその頃の十二大通の一人だったという。

コメント
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