東洋移民会社
福神漬の絡みで浅田正文の経歴を調べていると日本郵船・東武鉄道・東洋移民会社が良く出てくる。東洋移民会社は資料的なものが少なく福神漬の歴史に絡む可能性が少ないと無視していた。しかし石井研堂『明治事物起源5』金融商業部に移民会社のはじめに不思議な記事がある。
移民会社のはじめ
明治24年秋頃より、日本郵船株式会社副社長吉川泰二郎と秀英社社長佐久間貞一と相計らい吉佐移民会社を設立した・内地の労働者を募集し、海外各国の需要に応じ、日本郵船会社の船舶を借りて、その出稼ぎの紹介機関を目的とする。資本金10万円にて無限責任、期限10ヵ年と定めた。第一回は南洋の一島仏領ニューカレドニアのニッケル鉱山の依頼にて移民600名を送った。
秀英社社長佐久間貞一は日本橋生まれ、上野の彰義隊に参加したが、どういうわけか上野戦争に参加できず(当日不在であった)この件は自身で語ることはなかったという。
秀英社は今の大日本印刷の創業者となっている。
吉佐移民会社は後に東洋移民会社となったようである。『日本奇人伝』鈴木明著より
従って浅田正文の晩年は東武鉄道と東洋移民会社が主となっていたのだろうか。旧幕臣と郵船のネットワークの一つがここに現れた。
内田魯庵の『くれの二十八日』
内田魯庵の小説を読んでいたらメキシコ移民が中止という話からグタグタした話だった。明治の30年代の話だと榎本武揚のメキシコ移民の話となる。
角山幸洋 『榎本武揚とメキシコ殖民移住』から
移民事業の失敗の原因として
1.調査不測・耕作に適さない土地しかなかった。
2移民.監督の力量不足。
3.栽培植物コーヒーの土地としては不適合などがあった。
また榎本武揚の立場が薩長政府の中で自由に動けず資金不足となってしまった事と福沢諭吉の『やせ我慢の節』に反論することなく行動でしめ示さなければならないというあせりがあった。
ただ気になるのは榎本武揚が足尾鉱毒事件で農商務大臣の立場で谷中村を視察後辞任した時期だった。メキシコ移民が出発した数日後の事だった。函館戦争時も榎本は最後まで行かなかった。彰義隊23回忌を終わった時、翌々日に文部大臣を辞任している。何かがあるのだろうか?
吉佐移民会社のこと
当時日本郵船副社長吉川泰二郎の目的
海外に航路を拡大する希望があったことと当時オーストラリア航路は競争がまだ激しくなかった。航海事業は殖民事業と相発展する。海外に殖民事業を起こすと、貨物の運搬、通信の往復が頻繁となり、航海事業が成り立つ。明治28年近藤死去。佐久間が明治31年11月肺結核で死去。
明治30年
日本郵船近藤廉平、副社長加藤正義重役岩永省一、浅田正文らが協議し資本金10万円で東洋移民会社を設立し、吉佐移民会社の事業を引き継いだ。
明治30年佐久間貞一はブラジル移民事業が現地の不況で中断となり30万円の負債を負う。彼は両国の将来を考え個人で処理したという。ブラジル移民事業の始まる前の話である。
浅田正文の経歴に東洋移民会社があるのはこのような経緯があった。
しかし、この当時の移民船には福神漬は積載されていない。
福神漬の絡みで浅田正文の経歴を調べていると日本郵船・東武鉄道・東洋移民会社が良く出てくる。東洋移民会社は資料的なものが少なく福神漬の歴史に絡む可能性が少ないと無視していた。しかし石井研堂『明治事物起源5』金融商業部に移民会社のはじめに不思議な記事がある。
移民会社のはじめ
明治24年秋頃より、日本郵船株式会社副社長吉川泰二郎と秀英社社長佐久間貞一と相計らい吉佐移民会社を設立した・内地の労働者を募集し、海外各国の需要に応じ、日本郵船会社の船舶を借りて、その出稼ぎの紹介機関を目的とする。資本金10万円にて無限責任、期限10ヵ年と定めた。第一回は南洋の一島仏領ニューカレドニアのニッケル鉱山の依頼にて移民600名を送った。
秀英社社長佐久間貞一は日本橋生まれ、上野の彰義隊に参加したが、どういうわけか上野戦争に参加できず(当日不在であった)この件は自身で語ることはなかったという。
秀英社は今の大日本印刷の創業者となっている。
吉佐移民会社は後に東洋移民会社となったようである。『日本奇人伝』鈴木明著より
従って浅田正文の晩年は東武鉄道と東洋移民会社が主となっていたのだろうか。旧幕臣と郵船のネットワークの一つがここに現れた。
内田魯庵の『くれの二十八日』
内田魯庵の小説を読んでいたらメキシコ移民が中止という話からグタグタした話だった。明治の30年代の話だと榎本武揚のメキシコ移民の話となる。
角山幸洋 『榎本武揚とメキシコ殖民移住』から
移民事業の失敗の原因として
1.調査不測・耕作に適さない土地しかなかった。
2移民.監督の力量不足。
3.栽培植物コーヒーの土地としては不適合などがあった。
また榎本武揚の立場が薩長政府の中で自由に動けず資金不足となってしまった事と福沢諭吉の『やせ我慢の節』に反論することなく行動でしめ示さなければならないというあせりがあった。
ただ気になるのは榎本武揚が足尾鉱毒事件で農商務大臣の立場で谷中村を視察後辞任した時期だった。メキシコ移民が出発した数日後の事だった。函館戦争時も榎本は最後まで行かなかった。彰義隊23回忌を終わった時、翌々日に文部大臣を辞任している。何かがあるのだろうか?
吉佐移民会社のこと
当時日本郵船副社長吉川泰二郎の目的
海外に航路を拡大する希望があったことと当時オーストラリア航路は競争がまだ激しくなかった。航海事業は殖民事業と相発展する。海外に殖民事業を起こすと、貨物の運搬、通信の往復が頻繁となり、航海事業が成り立つ。明治28年近藤死去。佐久間が明治31年11月肺結核で死去。
明治30年
日本郵船近藤廉平、副社長加藤正義重役岩永省一、浅田正文らが協議し資本金10万円で東洋移民会社を設立し、吉佐移民会社の事業を引き継いだ。
明治30年佐久間貞一はブラジル移民事業が現地の不況で中断となり30万円の負債を負う。彼は両国の将来を考え個人で処理したという。ブラジル移民事業の始まる前の話である。
浅田正文の経歴に東洋移民会社があるのはこのような経緯があった。
しかし、この当時の移民船には福神漬は積載されていない。