年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語88佐多稲子

2010年02月08日 | 福神漬
池の端の佐多稲子(1904-1998)

長崎で生まれたが複雑な家庭であったたため故郷喪失となり、上野山下界隈の気風が佐多稲子の心の故里なった。上野山下の心の中にある気風は反文明開化・親江戸情緒と言うことなる。
佐多稲子『私の東京地図』1
今頃この作者の本を読むとは思わなかった。検索すると福神漬のところで読むべき本と。一読すると自伝的小説で1910年ころからの東京の中と転々とした生活の跡と人との交流を書いていたような気がする。さらに福神漬の次の御徒町のあたりの文は樋口一葉の(たけくらべ)と似ているような気がした。
 この文は戦後まもなく書かれたもので(1946年3月)彼女のプロレタリア作家の形成が上野山下であると書いてある。
『東京の街の中でここは私の縄張り、と、ひそかにひとりぎめしている所がある。上野山下の界隈で。池之端、仲町、せいぜい黒門町から御徒町まで。これは、私の感情に生活の情緒が、この辺りで最初に形づくられてからであろう。』

佐多稲子『私の東京地図』30頁
鈴本の手前の大時計との間に、焼ける前は福神漬屋が近代風に店を出していた。この福神漬屋は私のいた頃は仲町の中ほどにあったものだった。池之端の福神漬と呼びならし、名代の店だったが、ずっと後になって、この福神漬の缶詰を手にとって商標をながめた友達の一人が『ああ、これ酒悦(しえつ)ね』
と喜んだ。そのしゅえつ、という名前は私には初めてで、山の手に育った友達は、池之端の福神漬も酒悦の福神漬と呼ぶのかと、耳に残ったことがある。
ある朝、福神漬を買いにやらされたが、この店では福神漬は好みのものだけ交ぜてくれるので、何かおかみさんの嫌いなものがあって、それを交ぜないように、と言いつかって行った。私は仲町まで走ってゆくうちに、その何かの名を忘れてしまった。まだ朝早く、ようやく店の掃除などを始めている仲町にうろうろしていて、何とか思い出そうとするのだがどうしても出てこない。あ、といいことに気づいて、私は福神漬屋に、奥の暗いような店に入ってゆき、福神漬に入る種の色々の名を聞いてみた。大根・しそのみ・こぶ・なた豆、あ、それだった、と、『なた豆だけは交ぜないでくださいな』と、用を果たしたことがある。

酒悦の福神漬は好みのものを交ぜることが出来たのだろうか。店舗ではバラ売りしていたということで一般の人は缶詰の福神漬を食べていた。明治末期の池之端のイメージは今の銀座のイメージと同じようなブランド価値があったのだろうか。
 ところで佐多稲子の女主人はなぜ『なた豆』をまぜないように指示したのだろうか?想像だがナタ豆の言い伝えで『避妊』効果があると信じられていた。佐多は本当の下町の人ではないので遊郭の旧習は知らなかったかもしれない。もしかすると女主人は花柳界の出身かもしれない。

コメント
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