『天衣紛上野初花』
くもにまごううえののはつはな.
天衣紛と書いてあって「くもにまごう」とは歌舞伎通しか読めないだろう。天衣紛と書いてあって「くもにまごう」とは歌舞伎通しか読めないだろう。築地の大谷図書館で借り出す時、思わず『上野のてんぷら粉』と言いそうになった。
明治14年の歌舞伎新報で一番初めに出てくる「雲見」とあって、新富座で公演が始まった時には『天衣紛上野初花』となっていた。この出し物は3月1日から当時上野公園で開催されていた、第二回内国勧業博覧会の客を取り込もうとした企画であった。
この博覧会の事務を取り仕切っていたのが北白川宮能久親王であった。博覧会当時は上野に住んでいたようである。「能久親王事蹟」森鴎外著
「明治十四年辛巳、三十五歳。東京におはす。議定官を兼ねさせ給ふ。歩兵大佐に任ぜられさせ給ふ。紀尾井第を営むとて、しばらく東叡山(上野寛永寺)に住ませ給ふ。」
江戸時代にあった話や言い伝えの実話を明治初めに2代松林伯円(しょうりんはくえん)が「天保六花撰(てんぽうろっかせん)」で講談としてまとめた。ここでは河内山宗俊は上野寛永寺の御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う)とされ、松江藩(松平家)への乗り込みと騙り(かたり=金品をだまし取ること)が中心となっている。さらに明治7年(1874年)には河竹黙阿弥が伯円の天保六花撰をさらに脚色し、歌舞伎作品『雲上野三衣策前(くものうえのさんえのさくまえ)』として初演(主演九代目市川団十郎)。さらに明治14年(1881年)3月には、やはり黙阿弥によって『天衣紛上野初花』と改題されて、東京新富座で二カ月上演した。
福島事件で自由民権運動を支持していた原胤昭は国事犯となった六人を見立て「天福六歌撰」と題して浮世絵を出販し,政府によって犯罪者となった。原の投獄を見ていた團團珍聞の梅亭金鵞はまともな比喩だと投獄されると考えただろう。
くもにまごううえののはつはな.
天衣紛と書いてあって「くもにまごう」とは歌舞伎通しか読めないだろう。天衣紛と書いてあって「くもにまごう」とは歌舞伎通しか読めないだろう。築地の大谷図書館で借り出す時、思わず『上野のてんぷら粉』と言いそうになった。
明治14年の歌舞伎新報で一番初めに出てくる「雲見」とあって、新富座で公演が始まった時には『天衣紛上野初花』となっていた。この出し物は3月1日から当時上野公園で開催されていた、第二回内国勧業博覧会の客を取り込もうとした企画であった。
この博覧会の事務を取り仕切っていたのが北白川宮能久親王であった。博覧会当時は上野に住んでいたようである。「能久親王事蹟」森鴎外著
「明治十四年辛巳、三十五歳。東京におはす。議定官を兼ねさせ給ふ。歩兵大佐に任ぜられさせ給ふ。紀尾井第を営むとて、しばらく東叡山(上野寛永寺)に住ませ給ふ。」
江戸時代にあった話や言い伝えの実話を明治初めに2代松林伯円(しょうりんはくえん)が「天保六花撰(てんぽうろっかせん)」で講談としてまとめた。ここでは河内山宗俊は上野寛永寺の御数寄屋坊主(茶事や茶器の管理を行う)とされ、松江藩(松平家)への乗り込みと騙り(かたり=金品をだまし取ること)が中心となっている。さらに明治7年(1874年)には河竹黙阿弥が伯円の天保六花撰をさらに脚色し、歌舞伎作品『雲上野三衣策前(くものうえのさんえのさくまえ)』として初演(主演九代目市川団十郎)。さらに明治14年(1881年)3月には、やはり黙阿弥によって『天衣紛上野初花』と改題されて、東京新富座で二カ月上演した。
福島事件で自由民権運動を支持していた原胤昭は国事犯となった六人を見立て「天福六歌撰」と題して浮世絵を出販し,政府によって犯罪者となった。原の投獄を見ていた團團珍聞の梅亭金鵞はまともな比喩だと投獄されると考えただろう。