年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語104山岡鉄舟の書

2010年02月27日 | 福神漬
山岡鉄舟の書
山岡鉄舟は頼まれれば嫌ともいわず書を書いていたという。書のお礼を旧幕臣の関係者や遺族に援助していたという。
彰義隊の墓のある円通寺仏麿和尚はある時、三河屋幸三郎に金の無心をした。幸三郎は彰義隊の人のために金を出した。また少し経って和尚から金の無心をされたので前の金がどうなったのか尋ねたら『酒を飲んで使ってしまったと言う』いうのでまた金を出したという。こんな事が続いて、幸三郎があきれて円通寺仏麿和尚と疎遠になった。しかし和尚は幸三郎の金を彰義隊の遺族に渡していた事が後に解り仲直りしたという。同じような話が多数あるが維新後堂々と新政府に反抗した彰義隊遺族を支援する事は出来なかったことが背景としてある。同様に池之端守田宝丹主人も上野の彰義隊の墓守人を密かに支援していたという。
 鉄舟は河鍋暁斎の書画会にも参加していた。明治の書画会は客を料理茶屋などに集め、好事家たちから参加料を取って即興的に書画家に揮ごうしてもらう「席書・席画が呼び物の一般公開イベント」だった。明治の中頃は興業的色彩を強め、書画家はもちろん、詩人、俳人、戯作者、茶人ら文雅の士、政治家や高級官僚、さらに酒色をもてなす芸者(新しい顧客を探すため)も加わった書画を仲立ちとする宴会となっていた。
 書画会に参集し、河鍋暁斎の絵に寄せ書きした大沼枕山、奥原晴湖、鈴木鵞湖、柴田是真、川上冬崖、山岡鉄舟、勝海舟、服部波山らとの合作は文人たちの多様な交遊を示している。
 暁斎書画会での席画は七福神、中国の故事、日本神話の英雄、竜虎、仏画、風俗画というように多彩であった。特に七福神の絵は縁起物として商人に喜ばれ多数残っている。
静岡県裾野市桃園にある不二農場の前身鈴木農園には山岡鉄舟の書「桃園」があったという。山岡鉄舟の書は膨大な数の書が残っていて、まだ骨董価格が上がらない原因かもしれない。
山岡の書に対して支払われた謝礼金は旧幕臣の恵まれない人達に渡ったのだろう。福神漬創製者・酒悦店主と交流があったという言い伝えはこのあたりにあるだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする