年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語101報道弾圧

2010年02月24日 | 福神漬
報道の自由
幕末から明治になり印刷技術の進歩(活字・製紙)によって大量に新聞が発行できるようになった。明治10年の西南戦争報道から読者が急拡大して、報道というものが力を持ってくると政府の意に合わない報道・事実と違う報道とか色々な問題が出てきた。
福地源一郎の「江湖新聞1868年(慶応4)江戸で創刊した」の戊辰戦争の報道は購読者の意に合うように事実を異なる報道をしていたりして、官軍の怒りを買い、22号で発行停止・印字没収された。しかし新聞がなくなることによって色々な噂が飛び交いかえって世の中は混乱した。明治2年に政府は新聞紙印行条例を発布し、政府の許可を得た新聞の発行を許可することになります。大新聞の始まり。 
『新聞印行条例』には、新聞紙は人々を文明開化させ見聞を広めさせること、政府の法律や方針等を正しく伝えるべきであること、平易な文章で伝えることなどが記され、また記事の内容についての政府の干渉は厳しかった。さらに新聞が明治政府と敵対する組織を支持することを禁止することを目的とした法律をつくった。明治8年から新聞紙条例・讒謗律という法律を公布し、明治政府や皇室・官員等を誹謗中傷することを禁止した。しかし、読者に政府の御用を知らせる報道では販売部数は期待できなかった。明治の社会が落ち着いてくると大新聞(政治を論ずる)から小新聞(歌舞伎・遊郭等の風俗報道・ルビ付き)が読者を増やしていった。しかしこの小新聞も政府の報道規制によって発行・発売禁止を避けるため、様々な工夫をして記事を作っていた。この様な工夫は今でも行われていて例えば風俗の取り締まり強化されて来たのでピンクチラシ等が今で配布する人から印刷業者まで逮捕されている。明治の報道規制強化によって、発行禁止は新聞社にとって大打撃となるようになっていった。従って検閲強化と読者拡大方法が変化し、小新聞の時代となり、團團珍聞の精彩が消えていった。
 明治10年に創刊した社会風刺雑誌の團團珍聞はその風刺姿勢がいつも政府に睨まれていた。この中で編集者梅亭金鵞は工夫していったと思われる。100年も前の風刺は当時の様子が解らず研究者も少ない。梅亭金鵞が福神漬命名に何も寓意を入れなかったのだろうか。
コメント
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