池之端御前の末路
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴(福地源一郎)の芸者遊びはずいぶん古いもので彼の末期がさびしかった原因の一つでもある。福地の女好きは数を自慢とする粋人でもあった。70近き晩年まで一日として女から離れられない生活であった。
こんな道楽で花柳界に捨てた金も多く、その末は東京府会の勢力を利用して賄賂を取ったかどで裁判所に引きだされた。(無罪)これが公人としての失脚のはじめで、晩年の桜痴を見ると今昔の感にたえないものがある。(伊藤痴遊全集第13巻)
池之端の家は散々に金を撒いた結果、隣人の浅田正文の手に渡り、一時は住む家もなかった。明治20年代初めの池之端で開かれた茶会では福地の交友関係の広さがわかる。彼の茶室跡が今の横山大観記念館の一部となっている。
台東区中央図書館の郷土史料のところで大正元年の地籍台帳によると下谷区茅町2丁目15から18までの地主は浅田正文となっている。2-15は120坪、2-16は約137坪、2-17は168坪、2―18は約184坪、合計約609坪となり地価8520円となっている。しかし昭和10年の台帳ではすでに浅田の名義ではなく2-18は分割され2-18-2は横山秀麿(横山大観)の名義となっている。横山大観が茅町に移ったのは明治42年頃なのでいかなる事情が周辺であったのだろうか。
伊藤痴遊全集 続第5巻より
伊藤痴遊全集から
明治大正昭和に活躍した講釈師
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴は明治の20年代までは双福といわれていて福沢諭吉と同じように有名であった。
さて福地の事跡として新聞業界に誇れるものが三つあげられる。
1 新聞の文章を作った。 江戸時代の読み物と違う新聞用の文章。
2 新聞業界の後進の育成、多くの新聞記者を育てた。
3 西南戦争時の従軍報道。実際に見聞した記事を書く。見もしない戯作者と違う報道姿勢。
しかし桜痴の名前のごとく福地は色を好み、深い仲となった桜路(さくらじ)という妓にちなんで号を桜痴としたといわれるくらいであった。晩年は没落し隣地に住んでいた浅田正文の火除け地として買収されたが、伊藤痴遊は明治10年代にあれだけの家に住むのは容易ではなかった。震災後も依然として福地の家は昔の面影がたもたれていた。
現在の横山大観記念館は福地桜痴の住居後の一部と隣人の住居後を購入したようである。横山大観の縁者の話では福地の茶室があったという。池之端御前の茶会は鹿鳴館(明治16年から明治23年)と対抗して開かれていた。明治10年代末に創生された福神漬と池之端をめぐる人々の縁がここに繋がる。また明治15年の福島事件を引き起こす前、福島で会津帝政党をつくり、自由民権運動に対して、政府支持政党とし組織した。地域の対立と維新時の心の問題が会津で激突した。
福地桜痴(源一郎)
昭和10年頃、福地が死去して30年たったころ柳田泉が桜痴の記憶を書いている。それによると桜痴は死後ももちろん生前も明治社会から冷遇されていて、表面的な活動のみ評価されていた。
福地桜痴(源一郎)晩年の仕事は歌舞伎等の演劇改良運動が中心となっていいた。また福地は落語家三遊亭円朝とも演劇改良運動で交友があったと思われる。
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴(福地源一郎)の芸者遊びはずいぶん古いもので彼の末期がさびしかった原因の一つでもある。福地の女好きは数を自慢とする粋人でもあった。70近き晩年まで一日として女から離れられない生活であった。
こんな道楽で花柳界に捨てた金も多く、その末は東京府会の勢力を利用して賄賂を取ったかどで裁判所に引きだされた。(無罪)これが公人としての失脚のはじめで、晩年の桜痴を見ると今昔の感にたえないものがある。(伊藤痴遊全集第13巻)
池之端の家は散々に金を撒いた結果、隣人の浅田正文の手に渡り、一時は住む家もなかった。明治20年代初めの池之端で開かれた茶会では福地の交友関係の広さがわかる。彼の茶室跡が今の横山大観記念館の一部となっている。
台東区中央図書館の郷土史料のところで大正元年の地籍台帳によると下谷区茅町2丁目15から18までの地主は浅田正文となっている。2-15は120坪、2-16は約137坪、2-17は168坪、2―18は約184坪、合計約609坪となり地価8520円となっている。しかし昭和10年の台帳ではすでに浅田の名義ではなく2-18は分割され2-18-2は横山秀麿(横山大観)の名義となっている。横山大観が茅町に移ったのは明治42年頃なのでいかなる事情が周辺であったのだろうか。
伊藤痴遊全集 続第5巻より
伊藤痴遊全集から
明治大正昭和に活躍した講釈師
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴は明治の20年代までは双福といわれていて福沢諭吉と同じように有名であった。
さて福地の事跡として新聞業界に誇れるものが三つあげられる。
1 新聞の文章を作った。 江戸時代の読み物と違う新聞用の文章。
2 新聞業界の後進の育成、多くの新聞記者を育てた。
3 西南戦争時の従軍報道。実際に見聞した記事を書く。見もしない戯作者と違う報道姿勢。
しかし桜痴の名前のごとく福地は色を好み、深い仲となった桜路(さくらじ)という妓にちなんで号を桜痴としたといわれるくらいであった。晩年は没落し隣地に住んでいた浅田正文の火除け地として買収されたが、伊藤痴遊は明治10年代にあれだけの家に住むのは容易ではなかった。震災後も依然として福地の家は昔の面影がたもたれていた。
現在の横山大観記念館は福地桜痴の住居後の一部と隣人の住居後を購入したようである。横山大観の縁者の話では福地の茶室があったという。池之端御前の茶会は鹿鳴館(明治16年から明治23年)と対抗して開かれていた。明治10年代末に創生された福神漬と池之端をめぐる人々の縁がここに繋がる。また明治15年の福島事件を引き起こす前、福島で会津帝政党をつくり、自由民権運動に対して、政府支持政党とし組織した。地域の対立と維新時の心の問題が会津で激突した。
福地桜痴(源一郎)
昭和10年頃、福地が死去して30年たったころ柳田泉が桜痴の記憶を書いている。それによると桜痴は死後ももちろん生前も明治社会から冷遇されていて、表面的な活動のみ評価されていた。
福地桜痴(源一郎)晩年の仕事は歌舞伎等の演劇改良運動が中心となっていいた。また福地は落語家三遊亭円朝とも演劇改良運動で交友があったと思われる。