年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語81高野長英

2010年02月01日 | 福神漬
高野長英―内田弥太郎―花香恭法

嘉永3年(1850年)高野長英(47歳)下総香取郡萬歳に一時潜伏する。花香恭法の家に隠れる。3月まで。
嘉永3年10月30日自刃
高野長英 佐藤昌介著より
212ページ
内田弥太郎(五観)門人で西洋詳細証術(西洋数学)を学んでいた花香恭法を頼って、下総香取郡萬歳(今の千葉県旭市)にしばらく身を潜めた。内田弥太郎の指示で甥が高野長英を江戸で匿ったのだが甥とか高野の妻などが高野が殺害された後処分されたが内田弥太郎はどの様な理由か不問となっている。高野長英の関連の書籍に納得の行く見解がない。長英が自刃したとき(史料では自刃となっているが吉村昭氏によると江戸市内に潜伏していたため、逃走状況が判明すると町奉行の面目がつぶれるので撲殺したという)、この時内田弥太郎は何処にいたのだろうか。
 多くの高野長英に関する本でも、長英が殺害された時、内田弥太郎が幕府の咎めが無かったのは不思議であると書いてある。また明治まで生き残った内田弥太郎(五観)はこのことを語ることも無く人生を終わらせた。嘉永3年の高野の死去後、内田は幕府の職を辞し、麻布の地で西洋詳細証術(西洋数学)を教え、維新前、横浜で外国人向けに刊行されていた英字新聞等を翻訳し、慶応元年(1865)には会員に翻訳新聞の写しを提供する「会訳社」に参加していた。維新後わが国の暦の改定に関わる天文台の仕事に携わっていた。築地の蘭学医者桂川甫周の家に出入りしていた人達と『オランダ正月』を祝っていたこともあった。
 内田弥太郎は戸田伊豆守氏栄に浦賀で会っていたのではないだろうか。戸田が浦賀奉行となったのは弘化4年で高野が死去する前のことで、浦賀を測量した内田弥太郎の意見を必要だったのではなかったのか。当時の幕府の中で開国止むなしと思っていた戸田は内田や高野長英の意見を採っていたと思われる。しかし、戸田の行動は当時の幕府幹部の中では過激すぎて、ペリーらが退去するとペリーと開国の密約をしたと疑いをかけられ、再度来航したとき戸田を応接の場から外した。南浦書信 浦賀近世史研究会著
 戸田が高野長英の死去時、内田弥太郎を保護したのではないか。戸田の3男長井昌言の依頼で内田弥太郎に5男の行く末を頼み、内田の学問上の弟子である花香恭法の養子としたのではないだろうか。既に花香の家には養子がいたので無理して頼んだと思われる。
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