京浜急行の浦賀駅から歩いて、浦賀文化センター内にある郷土資料室に向かう。二階に上がる途中に愛宕山公園内にある中島三郎助顕彰碑の拓本がある。榎本武揚の書である。この碑は明治23年に計画され、翌明治24年(1891)に開園した横須賀市内で一番古い愛宕山公園に建てられた。急な坂を上ってゆくと 中島三郎助の招魂碑と咸臨丸出航の碑と与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑があります。
中島三郎助は、嘉永6年(1853)ペリー率いる黒船来航の時から日本史に出てきます。
我が国で初めての洋式軍艦・鳳凰丸を浦賀で建造したり、幕末に活躍しました。愛宕山の碑は拓本の墨のよる影響か汚れていて写真に撮る気が起きません。
咸臨丸出航の碑は、昭和35年(1960)に日米修好通商条約の締結 100年を記念して建てられましたのだが繁茂している草のため、後ろに回れず、碑の裏にあるという艦長・勝海舟をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が連ねられているのが確認できなかった。
もと来た道を帰らず、住宅街を通って海岸にゆく。歴史のある道は終戦時中国から引き揚げた日本人が故国に第一歩を記した陸軍埠頭もあった。ここは軍事拠点である町である。国防の要所は好き嫌いにかかわらず、他の地区と交換できない歴史がある。
中島三郎助は、嘉永6年(1853)ペリー率いる黒船来航の時から日本史に出てきます。
我が国で初めての洋式軍艦・鳳凰丸を浦賀で建造したり、幕末に活躍しました。愛宕山の碑は拓本の墨のよる影響か汚れていて写真に撮る気が起きません。
咸臨丸出航の碑は、昭和35年(1960)に日米修好通商条約の締結 100年を記念して建てられましたのだが繁茂している草のため、後ろに回れず、碑の裏にあるという艦長・勝海舟をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が連ねられているのが確認できなかった。
もと来た道を帰らず、住宅街を通って海岸にゆく。歴史のある道は終戦時中国から引き揚げた日本人が故国に第一歩を記した陸軍埠頭もあった。ここは軍事拠点である町である。国防の要所は好き嫌いにかかわらず、他の地区と交換できない歴史がある。