年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

喜兵衛はどうして函館へ

2010年06月28日 | 福神漬
石井研堂の著書明治事物起源で日本における缶詰の始まりに出てくる、千葉行徳の漬物商喜兵衛がなぜ函館で戦死したのだろうか。上野戦争後、幕府の御用商人は得意先を失ったことになる。特に上野寛永寺は逆賊の拠点となった場所だからそこに納品していたなら、得意先を完全に失ったこととなる。今と違って当時の漬物需要は少なく。大きな千住宿とか川崎宿にも漬物商は無かった。つまり職業を変えねばならなかったのである。先の大戦で軍隊に納品していた漬物業者は全国的な食料不足によって需要は消えなかった。しかし明治維新のときは漬物の得意先であった武家・寺社・商人層が混乱したため、需要が蒸発し、江戸での生活から蝦夷地開発の夢に乗ったと思われる。どこかで蝦夷地に向かう船に乗り函館に向った。しかし喜兵衛は武士でなかったため、千代ヶ岡陣屋のところで戦死しても多くの(函館戦争の)文献に残らず忘れ去られた。幕末維新全殉難者名鑑には武士だけでなく、幕末の混乱で難に遭った死者も掲載されている。苗字もなく死んだ多数の人々で賊軍にあったため祀られた事もない人々の一部が名鑑に記載されている。
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