小笠原長行
開国の騎手 小笠原長行 岩井弘融著
幕末神奈川生麦で起きた英国人殺傷事件を独断で賠償金を払ったように開国止むなしと考え、開国の騒乱を最小にすることを考えていた人だった。
九州唐津藩の小笠原長行は函館戦争の後、江戸に逃亡し、明治5年まで東京の下町の中で隠れていた。本所とか湯島妻恋のあたりに潜伏し、函館戦争で戦った榎本たちが赦免された頃、逃亡していたアメリカから帰国したようにニセの届けを出し、一ヶ月程度の謹慎で赦免された。その後は表立った行動することもなく明治24年1月22日に亡くなった。
下母澤寛
「花と奔流」という小説に小笠原長行の生涯が題材となっている。
下母澤寛は北海道生まれでは親族が函館戦争に関係していて、どちらかといえば幕府方を描いた小説が多い気がする。彼は戊辰戦争から生き残っていた人を取材して小説を書いていた。しかし、どの小説家でも明治に入っての旧幕臣の描き方は誰を書いても簡単に処理されている。戊辰戦争で死ぬより、明治に入って生き残る方が大変な時代だった。
長行は、東京駒込動坂の小邸で隠棲、明治九年(一八七六)十一月従五位に叙せられ、明治十三年(一八八〇)六月特旨を以て従四位に叙せられました。
明治二十四年一月二十九日葬儀が行われたが、その模様を久敬社誌は次のように報じています。『一月二十九日、従四位小笠原長行公の遺骸を谷中天王寺に葬送したり。中略 実に盛大美を尽し麗を極めたる葬儀と謂うべし。当日は榎本武揚、林田保(村田保?)らの諸氏も会葬せられたり。」と。
この葬儀の会葬者に榎本武揚と共に林田保が参列しているが財団法人久敬社塾(東京で佐賀県唐津地方の学生のために寮などを運営している)に村田保の誤植ではないかと問い合わせたが解らないという回答でした。
村田保は唐津藩士の子として生まれました。西日暮里浄光寺の福神漬顕彰碑の揮毫をしたわが国の水産業会の功労者です。
また唐津藩士の子として生まれた明治の建築家・曽禰達蔵は小笠原長行に気に入られ、10歳の頃から長行の小姓となり、上野戦争敗北後、東北地方まで長行と同道したが命を惜しまれ、唐津に返された。曽禰達蔵は建築家となって、師のコンドルと共に三菱関係の建物の設計を多くしている。大正12年7月に鶯亭金升が大手町三菱のビル内で福神漬の話をし出したのは偶然のことだったのだろうか。
開国の騎手 小笠原長行 岩井弘融著
幕末神奈川生麦で起きた英国人殺傷事件を独断で賠償金を払ったように開国止むなしと考え、開国の騒乱を最小にすることを考えていた人だった。
九州唐津藩の小笠原長行は函館戦争の後、江戸に逃亡し、明治5年まで東京の下町の中で隠れていた。本所とか湯島妻恋のあたりに潜伏し、函館戦争で戦った榎本たちが赦免された頃、逃亡していたアメリカから帰国したようにニセの届けを出し、一ヶ月程度の謹慎で赦免された。その後は表立った行動することもなく明治24年1月22日に亡くなった。
下母澤寛
「花と奔流」という小説に小笠原長行の生涯が題材となっている。
下母澤寛は北海道生まれでは親族が函館戦争に関係していて、どちらかといえば幕府方を描いた小説が多い気がする。彼は戊辰戦争から生き残っていた人を取材して小説を書いていた。しかし、どの小説家でも明治に入っての旧幕臣の描き方は誰を書いても簡単に処理されている。戊辰戦争で死ぬより、明治に入って生き残る方が大変な時代だった。
長行は、東京駒込動坂の小邸で隠棲、明治九年(一八七六)十一月従五位に叙せられ、明治十三年(一八八〇)六月特旨を以て従四位に叙せられました。
明治二十四年一月二十九日葬儀が行われたが、その模様を久敬社誌は次のように報じています。『一月二十九日、従四位小笠原長行公の遺骸を谷中天王寺に葬送したり。中略 実に盛大美を尽し麗を極めたる葬儀と謂うべし。当日は榎本武揚、林田保(村田保?)らの諸氏も会葬せられたり。」と。
この葬儀の会葬者に榎本武揚と共に林田保が参列しているが財団法人久敬社塾(東京で佐賀県唐津地方の学生のために寮などを運営している)に村田保の誤植ではないかと問い合わせたが解らないという回答でした。
村田保は唐津藩士の子として生まれました。西日暮里浄光寺の福神漬顕彰碑の揮毫をしたわが国の水産業会の功労者です。
また唐津藩士の子として生まれた明治の建築家・曽禰達蔵は小笠原長行に気に入られ、10歳の頃から長行の小姓となり、上野戦争敗北後、東北地方まで長行と同道したが命を惜しまれ、唐津に返された。曽禰達蔵は建築家となって、師のコンドルと共に三菱関係の建物の設計を多くしている。大正12年7月に鶯亭金升が大手町三菱のビル内で福神漬の話をし出したのは偶然のことだったのだろうか。