年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

公家の若様

2011年12月08日 | 福神漬
公家の若様
香取民衆史10 香取歴史教育者協議会
自由民権の才子 花香恭次郎(浦賀奉行戸田氏栄5男)と言う文章の中で花香家の中では「京都の公家の若様を養子にした」と言う噂があったという。花香恭次郎は明治5年5月より6年4月まで横浜の商社に勤めていた。この頃の横浜は鉄道開業の時期に当たっていて、景気の良い時であったと思われる。今でも高島町と町名で残る高島嘉右衛門と交流があったのではなかったのだろうか。自由民権家と知られている戸田欽堂は大垣戸田藩に側室として勤めたと嘉右衛門の姉の子供である。欽堂はアメリカ留学を一年足らずで挫折し帰国しているので明治5年には日本にいた。
明治3年には岩倉具視の娘極子は戸田家に嫁入りしているので,恭次郎は岩倉家の菓子でももらっていたのではないのだろうか。食べてしまえば資料として残らない。京都の公家の若様という噂は岩倉家と間接的交流があったということを示していると思われる。そもそも戸田氏栄3男長井昌言が明治になって工部省鉄道寮に務めるようになったのは、大垣戸田家と高島嘉右衛門の力と思われる。
 大垣戸田藩が維新の混乱を小原鉄心の力で乗り切ったがこの状況を作ったのは浦賀奉行から黒船の軍備状況を詳しく知り、小原鉄心等の大垣藩士が下曽根金三郎に弟子入りしたことなどは浦賀奉行戸田氏栄の口添えがあったと思われる。下曽根兼三郎は筒井政憲の子である。また長井昌言は筒井政憲が養子先を斡旋した。
 黒船来航時の人間関係が福島事件被告人花香恭次郎に付いていると思われる。

(福神漬命名にはウラがあり、色々な寓意が隠されている)
コメント
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