年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

民法典論争

2011年12月22日 | 福神漬
民法典論争
法学セミナー
2009年 9月号 54巻 9号 通巻657号 七戸克彦文
福神漬関連の史料調査でまさか法学セミナーを読むことになるとは!!
 日暮里駅脇の諏訪台にある浄光寺という寺に巨大な福神漬顕彰碑がある。この顕彰碑の碑文を書いた村田保という人は日本の水産業業界の恩人で明治31年に小松宮親王より「水産翁」の号を賜っている。彼は非常な熱血漢で明治23年に山田法相が法案成立に焦り旧民法・商法の逐条審議省略をしたため反発し、同年開設となった貴族院勅撰議員となった村田が明治25年第三議会において「民法商法施行延期法案」を提出し、延期させた。これが民法典論争と言われるもので今の民法分野の人達から村田保の行動は非常に評判が悪い。この法典論争の頃村田保は明治23年の行政整理で水産局廃止になったことに憤慨し時の農商務大臣と談判し水産調査所を開設させ、ついに水産局を再興した。また数々の水産業関連法案を成立させた。日本の缶詰業は初期においては水産缶詰の製造から始まったので福神漬顕彰碑に揮毫を頼まれたのもこの様な縁からと思われる。
 村田保の経歴を調べるため法学セミナーを取り寄せたのだが七戸克彦氏が書いているように彼の生誕時の経歴がはっきりとしない。ある文献では幕臣の子とあり、また大坂唐津藩屋敷で生まれたという文献もある。彼の自伝で「村田水産翁伝」著者大日本水産会というのがあるがこの本でもはっきりと記述されていない。しかし、福神漬に関わる色々なエピソードから見ると唐津藩出身とした方が面白い。
 戊辰戦争時、唐津藩の元老中小笠原長行は北海道まで逃亡し、箱館で敗北すると身を隠し、維新後の新政府の榎本武揚処分の結果を見て、アメリカより帰国したと自首し、わずかな期間謹慎したのち下谷付近で余生を送った。彼が明治24年に死亡すると葬儀に榎本武揚と林田保という人が参列している。(久敬社誌=小笠原長行が作った唐津出身者のための育英団体)明治の時期の文献は誤植が多く、多分唐津藩出身の村田保が参列していたと思われる。
 戊辰戦争時、小笠原長行の東北逃亡に同行した小姓で後の建築家となった曾根達蔵がいる。彼はジョサイアコンドルの下で学び、卒業後三菱関連の建築を手がけている。小笠原長行が箱館にいた時、行徳の漬物商人だった『喜兵衛』が千代が岳陣屋で中島三郎助と同道し、討ち死にしている。
 浄光寺の福神漬顕彰碑の裏面に設立者名の中に山田箕之助という名があるが喜兵衛の親族である。
コメント
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