明治20年6月20日号團團珍聞
伊藤博文が濡れた衣装を洗濯屋に持ってきて、きれいにしようとしている絵がある。4月20日首相官邸での仮装舞踏会後のスキャンダル報道が濡れ衣だったということか。この件に関して團團珍聞の批判精神が妙に弱い。小林清親の風刺画があるが團團珍聞の誌上には掲載されていない。なぜ批評精神が弱いのだろうか。この6月20日頃女学雑誌が伊藤博文と戸田極子のスキャンダル報道で発行停止の処分を受けている。戸田夫妻が昇進し、ヨーロッパの大使館勤務となった。この事件は鹿鳴館の先行きを暗示していて条約改正のための欧風化政策の挫折を示している。
伊藤博文と團團珍聞はよきライバルであり、それぞれの権力、ペン力によって戦っていた。しかし團團珍聞の姉妹誌驥尾団子が自決した頃(明治16年5月)から風刺力が弱まり、雑誌の販売力が下がり経営難となってゆく。團團珍聞社主野村文夫は芸州藩主だった浅野長勲の力を借り、團團珍聞の同じ敷地内(神田雉子町32)に新聞日本を誘致し、借財を減らした。明治22年2月11日に新聞日本は発足した。つまり一時は鶯亭金升と正岡子規は同じ所で働いていた事となる。また金升は大垣戸田藩の支藩深沢戸田家の子孫で大垣戸田家と交流があったようである。この事から、金升が仮装舞踏会後のスキャンダル情報の事実関係を知っていて、露骨に報道することを避けたと推察できる。
伊藤博文が濡れた衣装を洗濯屋に持ってきて、きれいにしようとしている絵がある。4月20日首相官邸での仮装舞踏会後のスキャンダル報道が濡れ衣だったということか。この件に関して團團珍聞の批判精神が妙に弱い。小林清親の風刺画があるが團團珍聞の誌上には掲載されていない。なぜ批評精神が弱いのだろうか。この6月20日頃女学雑誌が伊藤博文と戸田極子のスキャンダル報道で発行停止の処分を受けている。戸田夫妻が昇進し、ヨーロッパの大使館勤務となった。この事件は鹿鳴館の先行きを暗示していて条約改正のための欧風化政策の挫折を示している。
伊藤博文と團團珍聞はよきライバルであり、それぞれの権力、ペン力によって戦っていた。しかし團團珍聞の姉妹誌驥尾団子が自決した頃(明治16年5月)から風刺力が弱まり、雑誌の販売力が下がり経営難となってゆく。團團珍聞社主野村文夫は芸州藩主だった浅野長勲の力を借り、團團珍聞の同じ敷地内(神田雉子町32)に新聞日本を誘致し、借財を減らした。明治22年2月11日に新聞日本は発足した。つまり一時は鶯亭金升と正岡子規は同じ所で働いていた事となる。また金升は大垣戸田藩の支藩深沢戸田家の子孫で大垣戸田家と交流があったようである。この事から、金升が仮装舞踏会後のスキャンダル情報の事実関係を知っていて、露骨に報道することを避けたと推察できる。