岐阜県史 通史 近代上から
美濃(岐阜県)の人達が幕末維新の動乱に巻き込まれるのが慶応4年(1886)正月3日に始まった鳥羽伏見の戦いからである。前年8月大垣藩は幕府から「兵庫開港」のため大坂警備を命令され、小原兵部(鉄心の子)以下500余名の大垣藩兵を大坂に駐屯させていた。鳥羽伏見の開戦に当たって「在坂の人数一同上京候様」と幕府から命令された。そこで大坂駐屯の大垣藩兵は鳥羽街道の先兵となり、薩長の藩兵と戦闘になった。大垣藩はよく戦ったが他幕府軍の士気があがらなく敗退した。
鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜征討の朝命が発せられた頃から美濃の旗本諸藩の藩論が勤王・佐幕の両派に分かれていった。
慶応3年大政奉還の後、大垣藩小原鉄心は太政官の参与として朝廷政権にいたが、同時に鉄心の子兵部は幕府方の先鋒として活躍したりしていて大垣藩内部が混乱していた。
小原鉄心が朝廷に参加するようになったのは大垣の文化人江馬細香(女流漢詩人)梁川星巌との交流から広く人物が薩長方に知られていた。大垣市の史料では最初から鉄心は朝廷方には完全についていないように読みとれる。鳥羽伏見の戦いの様子を見てから藩論を朝廷方に付くように説得した様に思える。
大垣藩は朝敵となった鳥羽伏見の戦いに参加した藩兵のため、征東軍の先鋒となって旧幕府と戦うことを密約した。その様な事情の知らない二本松藩は藩主の正室が大垣戸田家出身であったため密かに調停を期待していたようである。白河戦争で期待は裏切られ、戊辰戦争となった。鳥羽伏見の戦いで朝敵となった大垣藩兵は白河戦争後死罪を免れた。
明治事物起源を著した石井研堂は今の福島県郡山出身であるのでその著書には戊辰戦争の影響が出ている。
福神漬の命名由来の陰に黒船来航前後から自由民権運動福島事件と繋がり、最後に日露戦争最後の決戦で場であった奉天で日本陸軍は朝昼晩の三食の漬物が福神漬となり、日露戦争が終わって余った福神漬が軍隊から安く売却され一般庶民まで福神漬が普及した。
美濃(岐阜県)の人達が幕末維新の動乱に巻き込まれるのが慶応4年(1886)正月3日に始まった鳥羽伏見の戦いからである。前年8月大垣藩は幕府から「兵庫開港」のため大坂警備を命令され、小原兵部(鉄心の子)以下500余名の大垣藩兵を大坂に駐屯させていた。鳥羽伏見の開戦に当たって「在坂の人数一同上京候様」と幕府から命令された。そこで大坂駐屯の大垣藩兵は鳥羽街道の先兵となり、薩長の藩兵と戦闘になった。大垣藩はよく戦ったが他幕府軍の士気があがらなく敗退した。
鳥羽伏見の戦いの後、徳川慶喜征討の朝命が発せられた頃から美濃の旗本諸藩の藩論が勤王・佐幕の両派に分かれていった。
慶応3年大政奉還の後、大垣藩小原鉄心は太政官の参与として朝廷政権にいたが、同時に鉄心の子兵部は幕府方の先鋒として活躍したりしていて大垣藩内部が混乱していた。
小原鉄心が朝廷に参加するようになったのは大垣の文化人江馬細香(女流漢詩人)梁川星巌との交流から広く人物が薩長方に知られていた。大垣市の史料では最初から鉄心は朝廷方には完全についていないように読みとれる。鳥羽伏見の戦いの様子を見てから藩論を朝廷方に付くように説得した様に思える。
大垣藩は朝敵となった鳥羽伏見の戦いに参加した藩兵のため、征東軍の先鋒となって旧幕府と戦うことを密約した。その様な事情の知らない二本松藩は藩主の正室が大垣戸田家出身であったため密かに調停を期待していたようである。白河戦争で期待は裏切られ、戊辰戦争となった。鳥羽伏見の戦いで朝敵となった大垣藩兵は白河戦争後死罪を免れた。
明治事物起源を著した石井研堂は今の福島県郡山出身であるのでその著書には戊辰戦争の影響が出ている。
福神漬の命名由来の陰に黒船来航前後から自由民権運動福島事件と繋がり、最後に日露戦争最後の決戦で場であった奉天で日本陸軍は朝昼晩の三食の漬物が福神漬となり、日露戦争が終わって余った福神漬が軍隊から安く売却され一般庶民まで福神漬が普及した。