年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

遠いうた 2 戸田極子外伝

2011年12月07日 | 福神漬
遠いうた-徳川伯爵夫人の七十五年-徳川元子著
 岩倉具視の娘(この本では次女)が戸田氏共に嫁いだ理由がこの本に書かれていた。
「祖父戸田氏共(うじたか=氏正の子)は、安政元年(1854)美濃大垣に生まれ、慶応元年(1865)に11歳で10万石の大垣藩主となりました。慶応3年15代将軍徳川慶喜が大政を奉還した後、翌年正月に鳥羽街道で錦旗に対して発砲したのです。家老であった小原鉄心という人は天下の形勢を見て、この発砲事件の直後、機を逸せず藩の意見をまとめ、祖父を上京させ、朝廷に謝罪するように図らったということです。そして急転直下岩倉具視の長男具定の指揮のもとに入り、北陸東山二道の幕府鎮撫の官軍に協力したのでした。勤王を正義とし、また当然のこととした洪水のような時の流れの中で執った小原氏の処置は、祖父の家の存続のために幸運なものでした。」
 岩倉具定が征東の途中、大垣で鄭重な饗応を受け、縁ができ、岩倉具視の次女極子と結婚することになりました。小原氏等の幕軍から官軍へと豹変した主家に対する配慮があったという。
 黒船来航時、浦賀奉行戸田氏栄は縁ある大垣戸田藩に援兵を頼んであった。小原鉄心は130人ほどの兵士を引き連れ、浦賀にて見物人整理の警備に当たった。米国兵士と浦賀民衆との不測の事態を回避する目的であった。黒船の兵装備を見聞きした小原は大垣藩の兵装備を弓矢・火縄銃から近代的にするように藩主に進言したという。この大垣藩の兵力が関東に向かう時官軍が必要な軍事力だった。
 1871年(明治3年)戸田氏共(16歳)と極子(14歳)は結婚後1カ月で別れ別れとなりました。小原氏等の薦めでアメリカ留学となりました。この留学に氏共と同道した戸田欽堂は(戸田氏正4男)妾腹の子で母は横浜の豪商高島 嘉右衛門の姉でした。

「もう少し続く、福神漬命名の由来には直接の文献が無いので」
コメント
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