年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

情報収集していても

2011年12月11日 | 福神漬
幕末日本の情報活動-「開国」の情報史-改訂増補版 岩下哲典著
黒船来航の日の翌々日夜嘉永6年6月5日東浦賀に吉田松陰は駆けつけた。次の日早朝高台に登り異国船を観察し,市中の情報を集めていた。東浦賀の徳田屋旅館には佐久間象山とその塾生も江戸からやってきて黒船を観察していた。松陰の参加した会合では幕府が異国船渡来の情報があったにも関わらず何もできない状況から体制批判となっていった。浦賀市中の情報では浦賀奉行戸田伊豆守氏栄と砲術指南下曽根金三郎は異国船対応処理で切腹は止むを得ないことを覚悟し、付近の寺をしばしば掃除しているという。これは長崎での英国船侵入問題(フェートン号事件)で長崎警備の長崎奉行と警備を担当する藩の重役が切腹した前例を連想していたと思われる。英国船が長崎で狼藉を働いていた時、佐賀鍋島藩は太平の世に慣れていて藩兵を長崎警備から減らしていた。この屈辱を味わった佐賀鍋島藩は次代藩主の下で兵装備の近代化に尽力し、明治維新の際に大きな軍事力を官軍からあてにされた。

 戸田伊豆守等浦賀の現場組があまりにも手際よく黒船を退去させたため、幕府内に開国の密約説が流れ、その後浦賀奉行戸田氏栄は間もなく左遷され留守居役となり、花香恭次郎が生まれる事となる。
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