鹿鳴館レイプ事件の真相
遠いうた-徳川伯爵夫人の七十五年 徳川元子著
何気なく都立中央図書館の3階開架図書のところを眺めていた。鳥居耀蔵の人物伝のとなりに徳川元子さんの本があった。この人は平成元年に82歳でなくなった人の本である。大垣藩主戸田氏共と岩倉具視の娘極子の孫に当たる人だが著者元子の母が早く亡くなったため、9歳の頃から神田駿河台南甲賀町6にあった戸田伯爵邸に
住むこととなった。この地は今の明治大学(南甲賀町11)付近で隣は西園寺公望邸(南甲賀町5)だった。
「(明治の当時にすでに)好色の名が高かった伊藤博文は30歳という女盛りの美しい祖母に眼をつけて、仮装舞踏会が催されたある晩、祖母(戸田極子)を一室に誘い、狼藉に及ぼうとしたのでした。祖母は驚いて開いていた窓から飛び降り、裸足のまま庭を駆け抜けて、辻待ちの人力車に逃げ帰ったそうです。この話は醜聞として有名となり,生涯大迷惑を蒙りました」
辻待ちの人力車は今のタクシーのように使われていて、人力車夫から噂話が広がりました。この舞踏会のあと間もなく伊藤が未成年の若い女性を強引に犯した噂があったため、2つの事件が合成され報道され、事実関係が訂正されないまま現在に至っているようです。
風刺マンガの團團珍聞は同じ神田区雉子町にありました。当時の主筆クラスにいた鶯亭金升は大垣戸田家の縁者でした。レイプ事件の事実関係を比較的早くから把握していたと思われます。伊藤博文に対して攻撃的だった團團珍聞が抑えた報道となったのは裏事情があったと思われます。三島通庸が事件を探査していて薩摩にたいする陰謀とみなしていることがあり、うっかりした報道で発行禁止となる恐れがありました。この事件報道は条約改正問題が絡んできて日本史に残る事件となりました。小説にも舞台にも上演されるようになりました。
福神漬の様々な経緯を調べてゆくうちにレイプ事件はこの様な結論となりました。
参考 前田愛著 幻影の明治 三島通庸と鹿鳴館時代
これにはレイプ事件報道をめぐる言論弾圧があった。政府批判の戯画を載せている団団珍聞がこの事件を報道していないのは不思議である。小林清親の首相官邸の仮装舞踏会の風刺画があるのになぜか報道されていない。想像だが鶯亭金升がレイプ事件の真相を戸田家から聞いていて、差し止めたと思われる。伊藤博文は団団珍聞の風刺先であるのに、記事が無いのも不自然でもある。
言論弾圧の下では、真実でないものを比喩として記事を書くことは発行停止や財産没収があり危険だった。