明治10年代に創製された福神漬はその容器が缶詰であったため、高価となり当初から売れ行きは良くなかった。明治20年代に入ると携帯できる酒のつまみとして文化人の中から普及してゆくようになった。
上野寛永寺の東隣の根岸の里は江戸時代から音無川の清流の恵みを受け、呉竹の里とも呼ばれる閑静な地でした。また文化人の住まいや妾宅の多い地でありました。その根岸の地に明治7年前後、工部省鉄道局役人だった父(長井昌言)の急死によって未亡人と子供が転居して来ました。(今の鴬谷駅付近)この子が福神漬の語り部・鶯亭金升(長井金升、長井総太郎)でした。
明治26年11月12日入谷の鬼子母神(真源寺)本堂で根岸党の『酒落ル会』があった。あらかじめ出されていた題材を基にして洒落の審査をする会があった。出典『明治文芸と薔薇』中込重明著
幸田露伴全集に根岸党の人たちが明治24年に福神漬を酒の友として食べていたことが書かれている。
先日鴬谷駅から歩いて台東区台東図書館(西浅草)まで行きました。途中に入谷七福神の真源寺があり、福禄寿を祀ってありました。
上野寛永寺の東隣の根岸の里は江戸時代から音無川の清流の恵みを受け、呉竹の里とも呼ばれる閑静な地でした。また文化人の住まいや妾宅の多い地でありました。その根岸の地に明治7年前後、工部省鉄道局役人だった父(長井昌言)の急死によって未亡人と子供が転居して来ました。(今の鴬谷駅付近)この子が福神漬の語り部・鶯亭金升(長井金升、長井総太郎)でした。
明治26年11月12日入谷の鬼子母神(真源寺)本堂で根岸党の『酒落ル会』があった。あらかじめ出されていた題材を基にして洒落の審査をする会があった。出典『明治文芸と薔薇』中込重明著
幸田露伴全集に根岸党の人たちが明治24年に福神漬を酒の友として食べていたことが書かれている。
先日鴬谷駅から歩いて台東区台東図書館(西浅草)まで行きました。途中に入谷七福神の真源寺があり、福禄寿を祀ってありました。