服部撫松という人は明治2 (1869)年二本松藩(二本松県?)公用人(情報収集のための交際をする)として東京勤務。明治4年廃藩後、公用人中に見聞きしたことで『東京新繁昌記』(1874~76)を執筆した。この本は福沢諭吉の(学問のすすめ)に次ぐくらい売れたという。ここで金を得た服部は出版社を起こし雑誌を発行した。この雑誌は「公益問答新聞」といい、南金六町にあった。これは新橋停車場前とも言える位置で今の銀座8丁目付近となる。
戊辰戦争で朝敵となった二本松藩はどの様な形で謝罪していったか資料をまだ読んでいないが二本松藩から高須藩主へ幕末に二人の娘が嫁いだ。二人の高須藩主は相次いで尾張藩主となった。第十五代尾張藩主徳川慶勝(嘉永2年丹羽長冨の娘矩姫(かねひめ)、第十六代徳川茂徳(政姫)となる。大垣戸田氏良次男(大垣新田藩主)にも嫁いでいる。幕末の二本松藩主丹羽長国は丹羽長冨の六男で正室は大垣藩主戸田氏共の娘だった。
このあたりの関係を書いた小説は今のところ見かけない。でも福神漬のことを調べてゆくと何か戊辰戦争時に大垣藩と二本松藩との間に親戚関係による情報援助があったと思うのが自然だと思われる。大政奉還後の新政府参与とした参加した大垣藩小原鉄心、尾張藩主徳川慶勝による二本松藩主に対する助命嘆願があったと想像できる。
福神漬の命名にマツワル事象の裏には複雑な幕末事情が見える。
戊辰戦争で朝敵となった二本松藩はどの様な形で謝罪していったか資料をまだ読んでいないが二本松藩から高須藩主へ幕末に二人の娘が嫁いだ。二人の高須藩主は相次いで尾張藩主となった。第十五代尾張藩主徳川慶勝(嘉永2年丹羽長冨の娘矩姫(かねひめ)、第十六代徳川茂徳(政姫)となる。大垣戸田氏良次男(大垣新田藩主)にも嫁いでいる。幕末の二本松藩主丹羽長国は丹羽長冨の六男で正室は大垣藩主戸田氏共の娘だった。
このあたりの関係を書いた小説は今のところ見かけない。でも福神漬のことを調べてゆくと何か戊辰戦争時に大垣藩と二本松藩との間に親戚関係による情報援助があったと思うのが自然だと思われる。大政奉還後の新政府参与とした参加した大垣藩小原鉄心、尾張藩主徳川慶勝による二本松藩主に対する助命嘆願があったと想像できる。
福神漬の命名にマツワル事象の裏には複雑な幕末事情が見える。