福神漬の由来を追ってゆくうちに色々な過去の人に遭遇する。知れば知るほど書けないこともあるが100年過ぎれば歴史ということで許していただきたい。ただ親族に伝わる事実は歴史と異なっていてもそれはそれでもよいかもしれない。
鶯亭金升日記 明治35年2月1日の日記に奈良の梅干の一件の記述がある。天正4年に造った梅干である。当時堺町奉行だった長井昌言が人を遣わし、江戸への土産として所望したようだ。明治15年頃、金升の母の手箱より見つかり、明治34年にこのことを読売新聞に記事となった。翌年つまり明治35年1月31日に読売新聞の記事を見た奈良の梅干を持っていた人の子孫が鶯亭金升を尋ねたという。このことがまた2001年に記事となったようだ。
さて長井昌言は最後から二人目の堺奉行となる。1500石という。在任期間は元治元(.1864)年11月10日から慶応元(1865)年11月10日で 決してペリー来航直後の話ではない。気になるのは大坂町奉行で急死した戸田伊豆守氏栄のことである。子孫の間では暗殺されたと思われているようだ。
花香恭次郎は今では無名の人だが福島事件を東京で盛り上げたのは彼の存在がある。浮世絵の対象ともなる人物だった。彼は明治23年8月コレラで急死した。この当時コレラを治す手段はなく、予防にはラムネが効くと信じられていた。池之端守田宝丹の薬がコレラ用としてよく売れていた。ビー玉いりラムネのビンが輸入されコレラに効くという理由でよく売れた。砂糖入りのラムネは洗浄不十分で再利用された。次第にサッカリンという人工甘味料を使用してラムネを造るようになった。このことが日本におけるサッカリン普及の原因となった。