年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

香山栄左衛門上申書2

2012年07月24日 | 福神漬

大日本古文書 幕末外国関係文書之1 自嘉永六年六月至同年七月
明治以後今でも教科書的には『黒船来航』は突然やってきたこととなっている。香山の作成した上申書は戸田と現場を任された浦賀奉行所与力全体の意向が隠されているように感じる。6月4日戸田の命令で江戸に向かった香山は江戸でペリーの来航情報が浦賀衆へ知らされていないと数時間涙していたと書いてあった。脚色だろう。
 ペリー以前に浦賀に現れた異国船の応対で浦賀与力衆は危機感を共有していた。砲台をつくり、西洋型の舟を造る事までしていた。しかし想像以上ペリーの船は大きく、船足は速く。さらに兵力は強大であった。幕府財政の厳しかった時に砲台とか大型船建造などにはかなりの費用が見込まれていた。このとき天保の改革で解散させられた東浦賀の塩問屋の利権の復活に中島三郎助が活躍した。千葉行徳の塩業者と深い関係ができたと思われる。行徳の漬物商人喜兵衛が函館で中島三郎助と共に戦死したのはこのような事情ではなかったのだろうか。ただまだ文献は見つからない。
東浦賀の塩問屋を経由した瀬戸内の塩は関東の塩需要の好みと異なり、行徳で再加工する必要がある塩があった。ここで行徳の地場の塩業者との関係が出来たと思われる。差塩と真塩の問題である。差塩はにがり分が多く、真塩はにがりが少ない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする