日本経済大典〈第41巻〉 (1970年)
咬菜百做録 コウサイ ヒャクサロク
大草公明著(大草振鷺) ; 戸田氏栄補[天保9] [1838]
1巻より4巻まで大草公明、付録の巻の著者は戸田氏栄
この本が出版される経緯はあとがきに戸田氏栄が書いている。天保9年正月、戸田の同窓で日々幕府の歴史の編纂に参加していた大草振鷺が考試の乙科に昇進した。正月のある日、戸田が大草のところに、祝賀の意を表すため駆けつけたところ、大草がこの一編を示した。それは幕府における諸先輩の節約した事例を抄録した原稿だった。戸田は最近の風俗(天保9年頃)が奢侈に流れる傾向があると思っていたのでこの原稿の中身が節倹を尊び、奢侈を抑えるものが載っているので我々の戒めの本とも言えると言った。戸田が早速校正し世に広く知らせてほしいと欲した。しかしこの校正が済まないうちに幕府の節約の命令が出て(天保の改革)、大草のこの原稿が期せずして役に立ったことは実に奇遇である。この本を司成林君に見せたところ、林君も時節に合い有益に成ると賞賛し、戸田に本にするように薦めた。初めの4編は色々な事例を抄出するとき家康公のことを省いたことが多かった。林君の勧めで戸田が付録の巻で家康公の言行を加えたという。
思うに幕府で歴史の編纂に20年以上従事していた歴史学者とも言える人物が天保の改革で突如目付けとして印旛沼工事に参加した戸田氏栄が出世の糸口となった本ではなかったのではないのだろうか。当時水野忠邦の改革の障害となっていたのが大奥の奢侈でその抑制の根拠となる事例が欲しかったと思われる。500石から浦賀奉行で3000石となり、最後の大坂町奉行で死去したとき5000石となるきっかけの本だったとも言える。
咬菜百做録 コウサイ ヒャクサロク
大草公明著(大草振鷺) ; 戸田氏栄補[天保9] [1838]
1巻より4巻まで大草公明、付録の巻の著者は戸田氏栄
この本が出版される経緯はあとがきに戸田氏栄が書いている。天保9年正月、戸田の同窓で日々幕府の歴史の編纂に参加していた大草振鷺が考試の乙科に昇進した。正月のある日、戸田が大草のところに、祝賀の意を表すため駆けつけたところ、大草がこの一編を示した。それは幕府における諸先輩の節約した事例を抄録した原稿だった。戸田は最近の風俗(天保9年頃)が奢侈に流れる傾向があると思っていたのでこの原稿の中身が節倹を尊び、奢侈を抑えるものが載っているので我々の戒めの本とも言えると言った。戸田が早速校正し世に広く知らせてほしいと欲した。しかしこの校正が済まないうちに幕府の節約の命令が出て(天保の改革)、大草のこの原稿が期せずして役に立ったことは実に奇遇である。この本を司成林君に見せたところ、林君も時節に合い有益に成ると賞賛し、戸田に本にするように薦めた。初めの4編は色々な事例を抄出するとき家康公のことを省いたことが多かった。林君の勧めで戸田が付録の巻で家康公の言行を加えたという。
思うに幕府で歴史の編纂に20年以上従事していた歴史学者とも言える人物が天保の改革で突如目付けとして印旛沼工事に参加した戸田氏栄が出世の糸口となった本ではなかったのではないのだろうか。当時水野忠邦の改革の障害となっていたのが大奥の奢侈でその抑制の根拠となる事例が欲しかったと思われる。500石から浦賀奉行で3000石となり、最後の大坂町奉行で死去したとき5000石となるきっかけの本だったとも言える。