大日本古文書 幕末外国関係文書之1 自嘉永六年六月至同年七月
この上申書は大まかに分けると初めてペリーが浦賀に来たときの経緯と再度翌年に来たときの事情が書かれている。特に2回目の香山に対する幕府の誤解についての弁明書になっている。後半の部分は安政6年頃に作成され幕府に提出されたと思われる。この時期の提出理由として考えられるのは香山栄左衛門の唯一の理解者であった戸田氏栄が安政5年8月に大坂町奉行の在任中に死去したため上申書を再度作成したと思われる。
香山と戸田は2度目のペリー来航が終わると間もなく左遷された地位となった。香山と戸田が開国派と思われ左遷されたと思う。ここに子孫に対する影響が現れ、福神漬の名称の由来にかかわってくる様になったと思われる。
安政6年江戸城本丸が焼失した際、ぺりー来航時の書類が焼失したものがあるという。香山の上申書は再度書かれたのが記録として残っている様に思える。