年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

銀座6丁目15の佐久間象山塾跡

2012年07月02日 | 福神漬
嘉永6年6月ペリーが浦賀に突然来航し、浦賀の町は混乱していた。その時、浦賀奉行所の対岸にある東浦賀の徳田屋という旅館で佐久間象山と吉田松陰は黒船を見、今後のことを話していた。松蔭は故郷へ送る浦賀情報を書いた書簡の中に浦賀奉行戸田氏栄と砲術指南の下曽根金三郎の指示で切腹する場所となる寺院を掃除させていたという。どうして混乱している中でこのような情報を得ることができたのだろうか不思議だった。
 嘉永4年佐久間象山は今の銀座6丁目15の地に砲術の塾を開いていた。佐久間の砲術は下曽根金三郎から学んだという。以前佐久間は神田お玉ヶ池に「象山書院」を開いた。隣が大垣の梁川 星巌の玉池吟社があったという。黒船が浦賀に来たとき、浦賀奉行戸田氏栄は大垣藩小原鉄心に見物人警備の応援を依頼した。梁川星巌と小原鉄心は詩文での交友があった。佐久間象山が京で暗殺される前、大垣小原鉄心のところに行ったという。
銀座6丁目15の地にあった佐久間象山塾は築地波除神社から首都高速の上に架かっている采女橋をとおり、今建て替え中で臨時の本社となっている読売新聞社を過ぎると銀座6丁目15の地となる。築地市場からすぐそばでまた中央区役所図書館(築地1丁目1)のあったところに土佐藩中屋敷があって、坂本竜馬がここから佐久間の塾に通ったという。嘉永6年12月のことである。佐久間の塾は嘉永7年4月、下田での吉田松陰密航事件に連座し閉塾となった。竜馬は嘉永7年6月土佐へ帰り、土佐で下曽根砲術を教えていた徳弘孝蔵に入門したという。

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