年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治16年新聞紙条例と福神漬

2013年10月05日 | 福神漬
日本マスコミュニケーション史 山本文雄編
明治16年4月に改正された新聞紙条例は大幅な言論の自由を奪った。この改正で社主、編集人、印刷人の資格を制限し、保証金制度を設け、発行禁止権を拡大した。さらに発行停止後、題号を代えて出す身代わり新聞を禁止した。ことに保証金制度は新聞社の財政を牽制したため、条例公布の4月20日以降、廃刊せざるを得ない新聞が多数出た。風刺雑誌でも同様なことで團團珍聞の姉妹雑誌というべき「驥尾団子」を廃刊に追い込んだ。
 この明治16年には投書家として鶯亭金升が「驥尾団子」に度々登場している。竹葉舎昌安、総太郎昌安を含め多数の筆名で15年頃から登場している。團團珍聞が風刺雑誌として一世を風靡したのは少し前で明治16年ころには出版停止の影響を恐れて風刺力が弱くなった時期に当たる。明治16年2月11日に「全国新聞雑誌評判記」が出版され、團團社の二大雑誌に厳しい採点が下されていた。「○珍も初号から百五十から六十頃までは余程面白かった」この評判記は政府による圧迫規制が團珍、驥尾団子の生彩を奪ったことは触れていないが的外れでもなかった。
 「団団珍聞」「驥尾団子」がゆく より
新聞紙条例の改定が団珍の最盛期を閉じさせた。創刊から参加していた戯作者梅亭金鵞はこの頃客員となっていて編集から離れていたようだがどの様な思いで見ていたのだろうか。
 池之端酒悦主人が白山上に梅亭を訪ねたのはこの頃で新しい漬物の命名を依頼した時期であった。団団社の周囲の人物の経歴を追うと決して明治政府よりの人はいない。どちらかというと国粋主義の人が多かった気がする。明治の大新聞「日本」は団団社の敷地内にあった。神田雉子町32.

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