年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

YOUTYBE動画で特攻遺書(作られたと思う)

2020年06月01日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父が台湾から特攻出撃したのは昭和20年5月20日夕方であった。この日は知覧から陸軍の特攻もあって、ほぼ同時間に沖縄嘉手納沖に向かった。戦死の時間は夕方の日没前後だろう。
 この特攻が日本の新聞に掲載されたのは5月末か6月初めで、このことから米軍の被害を受けた艦船の著書には知覧からの攻撃しか書かれていない。台湾と知覧からの出撃は両方とも一式戦闘機隼だったので米軍では台湾から来たのと知覧から来たのは区別できていなかったようだ。この5月20日頃は沖縄の梅雨末期で知覧は晴れて、台湾から沖縄は雲の多い天気かもしれない。当時の天気予報で沖縄は戦闘中で天気情報は最高機密なので米軍資料を調べないと判断できない。
 YOUTYBE動画で特攻遺書(大石清伍長から孤児となっていた妹への手紙は感動的だが、一部の聴取者が疑念をもって調べたようだ。・知覧と万世特攻基地からの名簿には大石伍長の名前がない。特に5月20日となっているの気になる。誰の創作なのだろうか。動画となって拡散され、そのまま後世に残るのは同日特攻した遺族を悩ます。
 今韓国で慰安婦の問題で渦中の人物が以前特攻した朝鮮人に感動し、死後に結婚したという報道があった。台湾からの特攻は少なく、またとんでもないところから調べる必要が生じた。知覧特攻平和会館 の特攻隊員1036名には何人かの朝鮮人隊員がいる。同期の仲間だから慰霊祭に招待され参加している。
 
大石清伍長「妹への手紙」は数々あった特攻隊からの聞き書きから創作したとまだ存命中の著者から発表してもらいたい。多くの特攻遺族は戦後の特攻に対する評価の格差が激しく、口をつぐんだままの人が多い。生き残った特攻隊員は戦後も語ることは出来たが遺族は無駄死にと言われた傷が今でも残る。特に飛行機乗りは数学もでき。英語もでき体力もあって生き残れば戦後の苦しい生活を少し緩和したという思いが残っている。

コメント
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