年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

築地の火事の思い出

2020年06月11日 | 宅老のグチ
今度のコロナ戦対応で築地市場での火事騒動を思い出す。移転までの期間で築地に勤め始めたオイルショック(1973年秋)後の火事でも数回以上記憶に残る。さらに築地場外市場の火事を含めれば件数だけは多い。さらに驚くのは例えば最後の大火事となった築地場外市場ラ-メン店の火事はテレビの生中継があった。この火事は結局夕方5時ころから翌日まで鎮火に時間がかかった。火事現場には二軒の得意先があり、火災の翌々日には近隣の店舗の協力で営業していた。携帯電話の時代は情報の復旧が早い。
 築地の市場の火事の原因は初期には殆ど原因不明で処理されていて、件数が増えるに従い原因がはっきりしてきた事例が増えた。多くの火事は休市前の夜に発生していた。つまりこの時しか築地市場が無人近くならないのだ。逆に日曜日の夜は翌朝の準備で飲酒もあって築地市場内に泊まり込む人もあったようだ。多くの市場の混乱は休市明けと連休前の朝に混乱が起きる。それも最後は築地の力が衰え、混乱が減った。
 災害は絶対にある。しかし準備が出来ていれば冷静に対抗できる。最初の頃の火事では築地の人は騒いでいたが度々の火事で対処の仕方に慣れ(保険を掛ける等)、すぐ仲間の協力で復活した。この行動を見ていると関東大震災で日本橋魚河岸を国家権力で使用禁止にしたのは地震による社会不安が終わり、魚河岸が復活することを恐れたためである。魚河岸の当時の文献を読んでいると魚を扱うところは日本橋魚河岸以外ではやはり震災後すぐに営業再開していたようだ。明治以後の東京の都市計画で最もアジア的風景だった日本橋魚河岸は政府として再建禁止をひそかに狙っていたと思われる。朝鮮人等の暴動を作り上げ、不安を煽り、防疫ということで日本橋魚河岸封鎖を合法化させ、地震が落ち着くと道路占拠禁止という別の法律で魚河岸再建を阻んだ。この道路占拠というのは日本橋魚河岸の住宅の前の道路に畳位の雨戸のような木製の板に縁をつけ、板舟と言われるものに魚等を並べ販売していた。この板舟が不動産的な権利となり売買されていて、築地に移転するとき、板舟権の補償の問題で混乱した。当時の治安維持機構は天災を待っていたとみた方がその後の歴史の展開が理解しやすい。このような見方をする左右の歴史学者はいない。天災による暴発行為とみなしているようだ。
 今度のコロナでアナログ利権が批判されつつある。すでにスマホを扱えない人は公営ギャンブルの投票が出来ない。無観客でも売り上げが増えているようだ。パチンコがコロナで問題となったのはアナログだったからでる。コロナが蔓延し、医療崩壊を恐れ、PCA検査を少なくしたため、政府発表の感染者数を信じないで感染不安が蔓延し通常の病気でも医者に行くことを回避し、ガラガラとなった医院も多い。
 今でも誰も明解に日本のコロナの終息の原因は不明である。もう金は政府にはない。来年は大幅な税収不足となるだろう。
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