NHKのドラマでビルマ・インパ-ル作戦の悲惨さを朝見た。父の弟は昭和19年11月から12月終わり頃、タイの基地からビルマに移動し、飛行50戦隊教育隊に参加し、ビルマの空で活躍していたと思いたいがたった数か月の実戦経験で歴戦の英国軍や米軍相手では援護しかできなかったと思われる。軍歴の内容解釈から、ビルマでは整備系の補助だったかもしれない。恩給計算から飛行機には乗っていなかった気がする。これも靖国神社の図書館で教えてもらうしかない。
昭和19年12月にはレイテ戦で海軍の飛行機を多数特攻で失い、陸軍の飛行機が残った。昭和20年1月にビルマから日本に戻り、一式戦闘機隼に機種変更し、常陸にある基地で隼の習熟訓練を2か月していた。
ビルマの首都ラング-ンは今ヤンゴンと名前が変わり、国際空港もヤンゴン国際空港と名前が変わったが叔父の滞在中はミンガラドン空港という名前だった。へホという地方空港も2012年11月に行った。今は観光地インレ-湖へ行く人たちの空港である。山の中の平地にあって特攻した叔父の航跡を知っていたらとてもミャンマ-の旅は心落ち着いていけなかっただろう。まだ2012年当時は叔父の軍歴は知らなかった。戦後75年経てば先の戦争の傷で心に秘かに隠していたことが記憶の檻から解放され、公になってきたようだ。ろくな装備がなく無理な作戦で連戦連勝の報道に騙され、必要のない死を強制されていたと今では思えるが当時はやむに已まれぬ大和魂と思わされていたようだ。特攻隊員の遺書はいつも家族の行く末を祈っている。
叔父の遺書らしきものはまだ見つからない。何か幽霊なものが存在していて、記録と記憶を残せとあの世から指図されていると感じる。
戦後75年過ぎれば歴史の世界に入りつつある。写真とかで記憶を戻すしかない。