先行きの見えないコロナで母の百までは外部に出ることを制限したがようやく心の解除。
靖国神社の図書館はコロナで長い間封鎖されていたが、事前予約で今は開いている。20人ほど座れる机が使用制限で4人しか使えない。都立中央図書館も予約と先着者が入れるが昨日確認した所ネット予約が半分くらいだった。以前の混雑を知っていたので想像だが図書館を今まで自習室代わりで使用していたのではないのだろうか。誰がいるか解らない図書館は長時間座るので感染リスクはある。しかし話さないのでマスクなら多分大丈夫だろう。ただ今は2時間とか3時間という制限が気になる。多摩の図書館は行くのに1時間以上かかるのでいつも読む本を数冊予定しているので4時間近くいることになる。根気が無くなったので図書館は普通3時間までと自主制限している。多摩に行くのは歌舞伎新報という明治の雑誌で明治26年末の上演(遠山桜天保日記)で評論家がどのように評価しているかを知ることが目的である。
靖国神社の図書館は先の戦争の関係者の貴重な本が多く、場所柄で普通の人は行かない。閉架式なので検索して、借り出す本を書類に書いて書庫から出してしてもらう。一度の借り出し本は3冊までである。大方の戦友会の活動は昭和で終わったようで昭和天皇が死去され、戦友たちの高齢化と会員の死去で活発な活動は終わった。それから30年以上たって、当時は気にしていなかった個人情報の問題があって、図書の貸し出しについて、住所等のコピ-は禁止という。戦争が終わって、75年経ち、戦後の混乱期を一家の中心となるべき人の特攻死はどれだけ無念だったことは戦友会報には書かれていない。生き残った人の想いだけがあって、遺族の声が見えない。やはり知覧と靖国は違うのだ。戦友会報には特攻当日のことが書いてあった。あとから行くからと言って握手し別れた。書いた人は生き残った。そして悔いが残ったようだ。つくづく酷い作戦だった。台湾で最後を迎えた陸軍飛行204戦隊は戦後の昭和21年に和歌山県田辺港に引き上げた。会報によると、戦争が終わってごく短い台湾滞在中に結婚した兵士もいたようだ。内地に帰って来た時、死者が生きてきた驚きとともに嫁がいたとは信じられない。
会報の陸軍飛行204戦隊の戦友たちの死亡記録を見ていると、昭和20年8月15日以降でもレイテ山中や様々なところで兵士が死去している。戦争末期で十分な装備がなく飛行機要員も普通の陸軍兵士として戦闘に参加し、逃避行をしていたようだ。多くは詳細な記録が無い様だ。ただ名前だけがある。叔父は埼玉護国神社等多くの所に名前を残している。ただ詳細な想いは残っていない。まだまだ調べることが残っている。