年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

野田市の染谷亮作を調べる

2024年10月18日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
特攻で亡くなった叔父の経歴等が全て消えている謎を今探っている。
 叔父は関東大震災があった大正12年の5月に生まれた。戸籍上では5男だが4男が幼児の時に亡くなり、その名前を使った。従って戸籍には同名の名がある。このことは最近まで気にしていなかったが戦後に自分が小児の時に訪問した時は非常に歓迎されていた記憶が残る。一種の生まれ変わりと思われていたのだろうか。この件で親族に聞き損ねた思いがある。女子の子供しかいない実家だった。私の父は昭和30年に亡くなったので、父からこの件を聞くことは無かった。そして叔父の話は断片的に逸話が残っている。
 叔父は今の埼玉県春日部市の川辺小学校を卒業し、野田市の野田農工学校へ進学した。4男は成績が良く、川辺小学校の長堀宇三郎先生の進言で野田農工学校へ進学した。戸籍を見ていると、多くの親族が高等小学校を出ると東京の下町の所(墨田区)へ就職した様子が見える。利根川・江戸川水運から繋がる人脈で縁故就職だったと想像できる。
 野田の野田農工学校は意外と野田市の記憶と記録が少ないと感じる。野田市の中央図書館で郷土史の文献を探しても少ないし、記述も少ない。千葉県の野田の付近の学生は千葉の方の学校へ進学し、地元の学校で中層の人達の進学先が少なかったように感じる。
 野田の郷土資料館の常設館で野田の漬物業者が30軒ほどあった。このことを質問したが文献の根拠となるものが聞き損ねた。江戸川・利根川に挟まれた野田市は農業地帯で漬物需要が少ないと思われる。そこで考えられるのはある程度漬物に作って、東京へ輸送し、缶詰加工の業者へ提供する漬物業者ではないのだろうか。当時の缶詰需要のほとんどは軍隊需要と思われる。
 野田市の正式な文献はまだないが野田市史研究という文献が市川市の図書館で読めそうだ。ここへは東京都のシルバ-パス利用で都営新宿線の終点の本八幡駅で降りて、ニッケコルトンプラザ行きの無料送迎バスで行く。歩いても10分程度。ここに市川市の文化施設が集まっている。
 染谷亮作は農本主義者だったのだろうか。一番親しい人の写真に漬物樽がある。この大きさの樽はタクワン樽でなく福神漬の樽と見える。このあたりの文献調査は大正年間の醤油の流通のの記録だろう。埼玉県川辺村の実家では自家製の醤油を作っていた。漬物用の醤油は下漬では上等の醤油を使う必要はない。製品の完成時に上等の醤油をつかい味付けとする。
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