年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

2024豊洲市場祭り・初開催11月3日 昼過ぎには終わる

2024年10月13日 | 宅老のグチ
築地市場が移転して、豊洲市場が開業して6周年の新聞記事があった。自分が種々の会議に傍聴人として、会議資料の収集役をしていたので、会議の内容の変化の具合も肌で感じていた。途中経過も知っていたので、今からの感想を言うと、前提として築地市場の流通市場としての場所として時代遅れ感があって、小売の場が量販店に向かっているにも関わらず、法規制の前提で行政が動いていた。それの基本的な考えは大正年間のコメ騒動をきっかけとした、社会主義者の反乱を恐れていて、弱者救済色が出ていた。そこから昭和に入って、戦時体制になると、物資の配給所となり、敗戦後は統制経済が終わり、自由になり多くの市場が大都市周辺に生まれ、競争激化となった。そこから抜け出した小売店が規模拡大となったのだが、一つの制約があった。それは商店の会計時の入力で、多くの女性は手の指の腱鞘炎に罹って、ベテランの人を安易に増やすことが出来なかった。いまはバーコ-ドで決済されるので臨時の店員でも簡単である。店ごとの商品の値段が異なり、値段のシ-ルを貼って、納品することを要求されていた。そのために納品問屋の必要性があった。多品種少量の店から大規模店に向かうのはバ-コ-ドの普及が必要だった。このことが必需となったのがセブンイレブンの要求から始まった。初期は印刷業者の技術が未熟でバ-コ-ドが読めないとか、一つのバ-コ-ド番号の使いまわしの事件もあった。
 時代遅れ感のあった築地市場の移転を動かしたのは石原知事で、やっと本腰感があった。でも多くの現状維持派が反対ししばしばとん挫し、最後の手段としてオリンピック招致となり、これにも一度失敗し、再招致で東京オリンピック2020となったが、これもコロナで2021となった。
 築地移転の誘導となった豊洲移転は6年がたった。これから都内各地の市場が徐々に消える。小売店の減少は鮮魚商の組合員の数が水産仲卸の数より少ない。量販店の取引はネットでほとんど行われていて、飲食店が市場需要の中心となっている。それゆえ豊洲市場は築地市場と同様に開放的にならないといけないのに、行政の法の問題で一般人が市場へは入れない。
 市場祭りは一般人が卸売市場に平気で入れる唯一の機会となっている。これも変化するだろう。築地市場の第1回目の祭りは十数万人の人出があって、来場者の安全性の確認問題で二回目で終わった。兵庫県明石市の花火事故の責任問題から、市場祭りの危機感があった。豊洲は築地と違って建物設備の危険性は少ないし、衛生面も対処できるので毎年開催できると思う。ただ築地と違って駐車場問題をどう解決するかが問題で、買った生鮮品をどう持ち帰るのだろうか。
コメント
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