年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

日本のデンマ―ク

2024年10月16日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
特攻で亡くなった叔父の経歴と当時の東と西の葛飾郡の社会状況を図書館で調べている。千葉県の野田市の郷土博物館で染谷亮作と川間村という平成28年度特別展の冊子を九段下の昭和館図書室で読んだ。彼は今は野田市の一部となった川間村に農業と教育の理想の実現に奔走した物語でした。染谷の力と野田の醤油業者の連携で、野田農工学校が設立され、叔父はそこに入学し、卒業して埼玉師範学校へ向かったのです。
 染谷は千葉の高校を出て、東大農学部に入り、その後に愛知県立農林学校として、1901(明治34年)設立された。初代校長は山崎延吉が着任し、山崎に誘われて染谷亮作が教師となった。安城の農林学校は多くの人材を輩出し、大正時代の日本三大農学校と言われ、全国から生徒を集め、世間では日本のデンマ―クと言われるほどの農業先進地となった。安城市史には日本のデンマ―クと言われた様子とその後の失敗となった様子が書かれている。今は農業と自動車の工業との混在地帯となっていて、違った形で明治用水の恩恵を受けている。

 染谷は数年安城で農業教育に尽くし惜しまれて故郷に戻った。川間村の親からしつこく郷土に戻り川間村の発展に力を出せと言われたようだ。川間の地に醤油輸送の鉄道の駅誘致、地域の学問の場として小学校の設立などがある。また利根川江戸川に挟まれた地域の改良にも力を出した。地域のための人生は今ネット検索しても、図書館の蔵書検索にも出てこない埋もれた人物となっている。
 特攻で亡くなった叔父の経歴を調べていると、軍国少年という話が出てこず、どのような進路を選択したか不明だったが、今調べてゆくとやはり日本のデンマ―クという農業というものを複数の農業生産物で安定化し、さらに食品業、協働の考えもあったと思われる。このあたりの研究が野田市の複雑な大正から昭和にかけての野田大労働争議の影響がある気がする。都立中央図書館の3階にある、日本各地の都市史で野田市の正式な市史は所蔵されていない。あるのは別編だけである。おかしいのはキッコ-マンの社史はある。
 山崎延吉を図書館で検索すると農本主義者の本が出て来る。これは戦後の先の戦争の諸原因を探る歴史学者の迷走から来ていて、今は山崎延吉を農本思想家と見ている学者は減っているようだ。
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