年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

小伝馬町のべったら市2024

2024年10月21日 | 宅老のグチ
19.20日は珍しく、べったら市は晴れだった。数年前に小伝馬町駅の一つの出口前に梅花亭という和菓子屋さんへ行ったが、目的の切り山椒は売り切れで、今回は早めに行って見た。今回は浅草線人形町駅で降りて、堀留町のサンヨ-堂のビル探しをした。サンヨ-堂は老舗の缶詰製造者で、広島の軍隊納の会社だった。
 日本缶詰協会を訪問した時、そこでサンヨ-堂が社史を出していることを知り、メールでどこの図書館で所蔵しているか知らせて欲しいとお願いした所、社史を送っていただき、さらに敷島漬という缶詰のレッテルを送付してもらった。サンヨ-堂は逸見山陽堂と言って、広島の会社で下谷根岸の地図を見ていた時、逸見家の住いがあった。根岸及近傍図(ねぎしおよびきんぼうのず)は、根岸倶楽部の立案及び大槻文彦の編集のもと、根岸の道しるべの図として1901年(明治34年)に刊行された地図
 一週間ほど社史を借り、必要なところを読み、福神漬のレッテルをカラ-コピ-して返した。社史によると、福石と言われた石の写真があって、どうやら大倉喜八郎の悪徳の証拠と言われた石を会社の記念品として所蔵しているという。
 逸見家の人は後の左翼の人達と交流があって、大杉榮 の自由への疾走である雪の夜に逸見は石の缶詰事件の真相を話した。逸見の会社で荷造り販売した缶詰が輸送中に荷崩れし、そのすき間に石を詰めて送った所、大倉喜八郎の関係会社の仕業とうわさが出ていた。大杉は悪徳商人だから噂の真相などどうでも良い事と話していた。大倉は上野戦争で活躍した武器商人で日本で唯一の死の商人と言われている人だった。実際はまともな商人でウワサは大倉が否定しないので今でも文献に残っている。
 消防署の前にあったサンヨ-東京ビルから宝田恵比寿神社・椙森神社 べったら市 の風景となる。このベッタラ市は旧暦の10月19・20日の開催だったが明治の改暦で一月ほど繰り上がり、べったら市の浅漬大根の味付け、早生大根の品種改良が進んだ。練馬大根が明治末期にダイコンのブランド化し、最後には戦後に23区目の誕生に伴い板橋区から分離した時に区名となった。練馬農業協同組合史より。
宝田恵比寿神社は小さな神社で境内はない。これは恵比寿購という祭りのための祭事の道具を扱う市だった。旧暦と新暦の混乱は今でもあって、関西は恵比寿購の祭りが新年にあって十日夷は1月10日に開催されている。西宮神社の福男の競争は有名である。
 べったら市を横目に小伝馬町牢獄後の十思公園へ向かう。公園内にある公共銭湯のビルの1階に小伝馬町牢獄の模型がある。ここで確認ししたのは平屋ということ。男性・女性は分けて収容している。後は身分によって部屋の位置、大きさ等が異なる。
 この後に日本橋小学校を目指して歩く。日本橋小学校は8階建てのビルで、地下一階はプール、1階より5階まで小学校、6・7階は図書館。8階は公共施設。都会と感じる。ここで地域史の所蔵状況を見て終わる。もう人形町駅まで近かった。
 ビルだらけの町に元気な小学生が集まる施設と感じる。地価から考えると子供たちの家は数億の家に住んでいることになる。恐ろしい東京。
 
コメント
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