年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

日本のスイスと言われた時計産業・南桜井地区

2024年10月17日 | 宅老のグチ
日本のスイスと言って、農村と工業の両立で農村地帯の経済の自立を戦後の経済復興に力を入れた人がいた。その名は賀川豊彦という人で今ではほぼ無名人となってしまった。京王線上北沢駅から歩いて10分ほどの所に記念館がある。そこを訪問し、農村時計会社の資料を眺めていた。

今はさいたま市に移転したリズム時計は創業以来長い間東武野田線南桜井駅に隣接するところに本社がありました。。
 その前身は戦後まもなく設立された農村時計製作所。荒廃した農村を精密工業によって復興を図り、東洋のスイスをつくるという設立者賀川豊彦の思いを引継ぎ、1950年に誕生しました。つまり農村時計は4年ほどの寿命で今では地域の人にも忘れ去られた会社でした。ただ自分は叔父の遺品・遺書等の生きている証が消えた理由がこの会社だと今では思うようになりました。
 農村時計の文献は春日部市史近現代 庄和地区に書かれていますが根拠となる文献資料は埼玉県立庄和高校地暦部の南桜井戦後史で、同じく地暦部の部活の本が杉戸・越谷図書館に所蔵されていて、地元の春日部市庄和図書館には部活の本が無いという奇妙な事実があります。今は事情が解かってきて、埼玉県教育委員会と庄和高校の左派系の部活の指導教師との対立が地域史をゆがめていて、叔父の特攻資料捜索の妨げとなっている現実がある。
 今だから言えるが叔父は軍国少年で無く、今風に言うと物静かな少年で埼玉師範学校の内申書の記録では物静かで友人少ないと評価されていました。親族の生きている人にこの内申書を見せたら、同じと言っていました。台湾での仲間たちと交流した93歳の中田芳子さんも静かな人という印象で記憶にあるのは将校たちとマ-ジャンをしていた記憶が残っていると言ってました。叔父は少尉で戦死したので大尉となっています。
 消えた・消された叔父の人生の航跡が何度も調査をあきらめて、そのたびに叔父の怨念が出てきて、新しい資料が見つかり、また捜索が始まる。ここまで来ると違った意味で叔父の人生がどう日本近現代史に関係していたのか気になってきた。
 
コメント
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