年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

七福神詣 

2007年05月16日 | 福神漬
七福神詣 三遊亭円朝作 要約
明治31年1月1日上野広小路でばったりと
甲「新年おめでとうございます」
乙「おめでとう、君はこれからどこへ」
甲「これから七福神詣でに行くんだ」
乙「古いね、七福神詣といえば谷中だけど、あいにく道が悪いよ」
甲「そんなところには行かないよ。まあ飯でも食べながら七福回りをするよ」
乙「七福回りといって、一体君は何処を回るのだ」
甲「僕の七福回りは豪商紳士の所を回るのさ」
乙「へー何処を回るの」
甲「まず一番に大黒詣でで今の豪商紳士では渋沢栄一君だろう」
乙「なるほど,頬のふくれていることなど大黒天の相があります、それに深川の本宅はみな米倉で囲まれてますか」
甲「それだけではないよ、明治世界で福も運もあるから開運出世大黒天さ」
乙「子分が多数あるのは小槌で、兜町の本宅に行くと子宝の多いこと」
甲「第一国立銀行で大黒の縁は十分にあります」
乙「さてエビスはどこだ」
甲「それならエビスは馬越恭平君さ」
乙「へエー、どういう訳」
甲「エビスビールの社長で、エビスの神が神武天皇へ戦争の時に食料や酒を差し上げる御用を務めたのがエビス神であるからさ」
乙「なるほど、寿老人は」
甲「安田善次郎君さ、茶席でおつな頭巾をかぶって、庭を杖などをついて歩いている所などまるで寿老人」
乙「して福禄寿は」
甲「はて、品川の益田孝君さ、一夜に頭が三尺伸びたというがたちまち福も禄も益田君と人の頭になるとは実に見事です」
乙「だが福禄寿には白鹿がそばにいなければならないが」
甲「時折話しか(咄家)を呼んでます」
乙「なるほど、こんどはむずかしいぜ、毘沙門は」
甲「はて、岩崎弥乃助君です。なんといても日本銀行総裁というのだから金の利ばかりもどのくらいあがるかたいそうなことです。」
乙「そこで布袋さんは」
甲「いまは大倉喜八郎君さ」
乙「どういうところで」
甲「はて、布袋和尚に縁があるのは住居は皆寺です、あれほどになるまで危ういことも度々あったとさ、大袋を広げるように人を大勢呼ぶのが好きなのさ」
乙「時に困るのは弁天でしょう」
甲「富貴楼のお倉さんかね、宅は横浜の弁天通りと羽衣町に近いし」
乙「しかし、紳士ほどの金満家にしても弁天も男に見立てたいさ」
と言っていると、うしろのふすまが開いて。
浅田「僕が弁天です」
甲「おや、あなたは浅田正文君ではありませんか、しかしあなたがどうして」
浅田「はて、僕は池之端に住んでいるからさ」

三遊亭円朝全集4巻より
池之端と酒悦の福神漬と日本郵船専務浅田正文の住まいは落語の「落ち」になるくらい知れていたのだろうか。常陸丸遺留物の写真はみな写っている。


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明治東京畸人伝

2007年05月15日 | 福神漬
明治東京畸人伝 211頁 森まゆみ著
七福神詣
三遊亭円朝の落語
明治31年1月1日の話
下谷区広小路から谷中に向かわず豪商紳士のもとを回る。
大黒様 渋沢栄一 第一国立銀行創立 500余の会社の設立
蛭子様 馬越恭平(まごしきょうへい)(エビスビール)
寿老人 安田善次郎 金融業
福禄寿 益田孝(旧三井物産の初代社長)
毘沙門 岩崎弥乃助 日本郵船創業者
布袋 大倉喜八郎 大倉財閥の創始者
弁天 浅田正文 東武鉄道の創立者/日本郵船 池之端に住んでいた
円朝の貴紳士交友自慢の落語 三遊亭円朝全集第4巻499頁
三遊亭円朝は大根河岸の藤浦富太郎が後援者であり藤浦富太郎は築地市場青果部の荷受会社東京中央青果の昭和10年発足時の初代社長である。

印度洋の遺留物に東京・池之端・福神漬とあった。池之端は日本郵船重役浅田正文の住んでいた所と知れていたのではないのだろうか。
べったら市の大伝馬町の隣,中央区小伝馬町の十思公園にある大安寺は大倉喜八郎と安田善次郎の寄付で出来た寺院だといわれる。二人の名前を取って大安寺と名付けられた。

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靖国神社へ

2007年05月14日 | 宅老のグチ
新しくなった千代田図書館へ行くついでに靖国神社に向かって。
九段下から見える鳥居の直ぐ脇にある
靖国神社の常陸丸記念碑
九段下の牛ヶ渕に常陸丸の慰霊碑がありましたが、第二次大戦後占領軍よって破却をめいじられたが、日露戦争60周年に当り靖国神社鳥居の横に復興再建したという。昭和40年11月15日
常陸丸殉難記念碑 復興期成会

とにかくでかい石碑で神社の鳥居とバランスが取れていて、日露戦争時に玄海の海に沈んだ将兵を慰霊している。この石碑はまた「合祀」の問題を内在している。御用船常陸丸の船長はイギリス人であったためである。
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日本郵船社内報2006年3月号より

2007年05月13日 | 福神漬
日本郵船社内報2006年3月号より
カレーライスについているの福神漬けですが、日本郵船が運航する客船上で考案されたといわれています。福神漬は明治19年に創製され、日本郵船は明治18年からです。どの様な結びつきがあったのでしょうか。単純に考えれば「御用船」として徴発された郵船の船舶が日清・日露の両戦役に使われ、軍需物資の中に福神漬があり、そのまま平時になっても管理のしやすい漬物として積まれたのではないだろうか。
 郵船と福神漬はもう少し調べる必要がある。5月7日にリニューアルした千代田区立図書館は設備も新しく居心地よい。ただし前の方が北の丸公園が眼下にあって景色が良かった。
 明治45年1月28日の東京朝日新聞には「婦人専用電車」と記事がありその内容が面白かった。当時の悪い男共が「花電車」と呼んで東京市内各所から同一時間に乗車する女学生に混雑に紛れて触れようとする行為をするので乃木学習院校長等が憤慨していたとか、女性の乗客が減ってしまうので明治45年1月31日より「女性専用電車」を混雑する時間に走らすという記事があった。二両連結して一両は婦人用とのことである。ここで気が付いたのは「べったら市」が市電の発達で人気出たのはこんな理由もあったかもしれない。混雑した電車内で「べったら・べったら」といって振り回すくらいだから。
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鶴見総持寺にある石碑②

2007年05月12日 | 福神漬
大正7年3月3日大阪朝日新聞
江田原少佐(東京朝日新聞は枝原)海軍省副官
○ 商船の悲しさ
ウォルフ号が先に降ろしたボートの乗員には目もくれず常陸丸に随行を命じてボートを置きざり悲しむ結果になったものと思われる。(実際は砲弾に当った。)
 ドイツが公報でボートを勝手に降ろしたため死者が多数出たというので日本側が少ない情報で色々想像している。
 日本全国の新聞が同一の論調となっている。商船を攻撃する卑怯なドイツとなっている。大正8年に捕虜の帰国と共に事実が解り常陸丸の悲劇は郵船社員しか記憶に残らず、今日に至ったのではあるまいか。常陸丸の印度洋に漂った遺留物で新聞に掲載された福神漬の木箱ははっきりと文字もわかり,郵船社員なら状況が理解していた。写真が掲載されてから約2週間後ドイツから公報が入り、捕虜となっていること知り、喜んだり、戦死者が出ていたのを知り悲しんだり、郵船社員の心の動揺は今でも容易に想像できる。

神奈川県横浜市鶴見にある総持寺には大きな常陸丸関連の石碑が鐘突き堂のそばにあり、一つは“歐州戦亂殉難會員之碑"と刻まれており,裏面には”宮崎丸“の殉難者3名,常陸丸”5名,“平野丸”43名の氏名が刻まれています。“常陸丸”富永船長の名前はありません。日本郵船株式會社郵司同友会が大正7年10月4日建立となっており,寄進者の中に山脇武夫の名前があります。大正7年10月はまだ常陸丸の捕虜となっていた大部分の人々が帰国していないのでこのような石碑となってしまったと思われる。少し遅れて建立した日本郵船会社の石碑に富永船長等常陸丸の戦死者全員の名を刻んである石碑が別にあります。
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大正7年3月3日読売新聞②

2007年05月11日 | 福神漬
欧州各地から急に常陸丸の情報が届き、富永船長の死去に関して推測している。
枝原海軍省副官談
○ 責任を尽くして立派な最後
外務省及び海軍省の発表事実について語る「ドイツ公報中の文言について何等の入電もないがそれはありうべきこと認められる。初め常陸丸は砲火を交えたというがその時無線電信機を破壊されたのではあるまいか、かかる危険の際は船長は必ず無線電信を打つものであるし、その暇もないわけでもないのに今日まで全く消息が絶えていた所を見るとどうしてもそう推測される。それからボートを降ろしたということであるが、これは降伏したという意味である。それになお攻撃したということは実に非人道的な処置と言わねばならぬ。
▲ 憎むべき敵の遁辞
武者小路第二課長談
ドイツが自国の政策上常陸丸が勝手にボートを降ろした結果、多数の人命を失うにといって至ったといって、いかにも常陸丸船長の失態であるように公表しているが、常陸丸船長の遺書に記しているように人事を尽くしてなお自己の立場を明らかにして死去したことは実に堂々たる態度である。結局ドイツが自分側で十分の人命救助等を尽くさない責任を回避して、勝手にボートを降ろした云々といったと思われる。

常陸丸の捜索をした郵船本社の山脇武夫氏談
ドイツの電文中「常陸丸が勝手にボートを降ろしたため多数の人命を損ぜリ」とあるがこれは敵艦の言い訳で勝手にボートを降ろすことはあり得ることではない。ボートに乗せておいて攻撃したと思われる。富永船長は「欧州航路が如何に危険だからといっても会社がの方から止められるまで決して自分から航海をしないとことはない。あくまでもするつもりである。」

第一次大戦が終わり常陸丸の戦死者の状況がわかるまで、当時の人々は新聞記事のように考えていたのではあるまいか。捕虜として帰還した時の記事は少なく、また、昭和に入ると日本とドイツは同盟国となったため、ますます忘れさられた。郵船の社員の記録はないが印度洋に漂った福神漬の木箱が記憶に残っていて欧州航路のカレーに福神漬が提供していたのを知っていたのだろう。なお常陸丸の死者のうち船客二名ともインド人であった。インド人とカレーライスと福神漬。いかにも結びつきそうである。


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大正7年3月3日読売新聞

2007年05月10日 | 福神漬
大正7年3月3日読売新聞
○ 常陸丸は奮戦の後 富永船長自殺
■ 乗組員船客も多数落命 積荷全部ウォルフ号に収容
遂に撃沈  ドイツ公報、外務省発表
印度太平洋等を荒らして此の頃ドイツに帰来したる同国補助巡洋艦ウォルフ号に関する同国広報中に曰く,日本郵船常陸丸等は砲火を交えたり、数個の砲弾を同船運転部に落とせリ、同船は勝手にボートを降ろしたる為多数の人命を損ぜり、同船は暫くの間随行船として伴いたるがその積荷全部をウォルフに積み替えた後撃沈せり、同船船長は自殺せりと(スペイン発3月1日外務省着伝)
◆ 邦人船員14名は戦死
◆ 上陸せる乗員よりの電報 日本給仕女他12名無事
船越英国大使館付き武官発3月2日海軍省着電に曰く
ウォルフに捕獲せられし後、デンマーク海岸に頓挫したるスペイン船イグノッディより上陸せる常陸丸乗員がロンドン郵船支店宛電報せるところによれば常陸丸は9月26日ドイツ略奪船の砲撃を受け遂に拿捕せらる、当時敵弾のため船員14名、インド人2名の死者を出だせり、乗客12名(内日本人なし)及び日本給仕女1名はスペイン船に移されて全部無事上陸せり、なお常陸丸はその後11月末日(?)に撃沈せられたり。
◆ 敵手に入りし船長の遺書(おきがき)
◆ 巨額の貨物鹵獲(ろかく・敵の軍用品・兵器などを奪い取ること)
◆ 捕虜の一部は上陸 三浦公使ベルン発
瑞西(スイス)ベルン三浦公使発3月1日外務省着電に曰く2月28日ウォルフ電報中常陸丸に関する部分次の如し。
 常陸丸とは短時間戦闘を交ふるのも止む得ざるに至り、数発砲撃の後彼の抵抗は止み、甲板には大混雑起これリ勝手にボートを降ろしたため多数の人命を失い、我が巡洋艦は数百万マルクの値のある同船貨物を鹵獲し、なお暫く同船を連れ歩きし後、スペイン船イグノッメンディを捕獲したるを以って、これを随伴することとし、常陸丸の客室設備を移し、60人の上等船客中女8名小児多人数の準備のをなせり、この後格別のことなくして,欧州の海面に達した時日本船長は自殺したり。遺書によれば、常陸丸の運命及び多人数の人命を失ったことがその原因なり。南欧州の海面にて天候不順ためスペイン船を見失ったものの同船は単独航海して来たり。
 風浪のためスカーゲンにて浅瀬に乗り上げ,捕虜は同地に上陸したものあり、捕虜はほとんど1年間ウォルフ号に伴われるもの如し,電文不明なるもスペイン船を捕獲したる後常陸丸は撃沈されたるにあらずやと想像す。

スカーゲンとはデンマークのユトランド半島のスカーゲン岬灯台付近。当時デンマークは中立国で捕虜は保護された。日本給仕女とは今のウエートレスで唯一の日本女性でコペンハーゲン・ロンドン経由で大正7年6月日本に帰国し、日本郵船横浜支店にて6月12日に常陸丸の遺族に遭難時の実況を説明した。船員の壮烈な最期を聞き皆もらい泣きしたという。

常陸丸の福神漬からこんな歴史が出てきました。


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海の墓標

2007年05月09日 | 福神漬
海の墓標 三輪祐児著
戦時下に喪われた日本の商船
第二次大戦において日本の戦没商船2,568隻、六万数千人の船員が海の藻屑と消えた。武器、弾薬、食糧が届かず、最前線の数十万の将兵が南の島々で飢え死にしました。
日本の商船は明治初期の台湾派兵の輸送と,西南の役に軍と船会社の関係が出来た。その関係は平和な時代は旅客や物資を輸送し、外国と通商し、戦争になった時,軍の「御用船」となる日本商船の運命の始まりであった。
 二代常陸丸は厳密に言うと「御用船」ではなかったかもしれないが初代常陸丸と同じ運命をたどった。
 近代の戦争は物資を大量に輸送する船舶を攻撃し、その軍隊の攻撃力を削ぐことだった。日露戦争の常陸丸の撃沈もロシアの大陸へ兵員物資を輸送する日本商船を攻撃した。第一次大戦の常陸丸の撃沈も第二次大戦の日本商船への攻撃も同様な通商破壊戦争であった。撃沈された商船の物資が届かず、軍艦で物資の輸送をせざるを得ず、ますます商船隊の警備が不足となり攻撃撃沈され、更に物資不足となっていった。戦後の統計によると日本軍人の餓死・戦病死した者が非常に多い。
 印度洋の常陸丸は軍の護衛もなく、後に捜索をした筑前丸は護衛があった。しかし、第一次大戦で210名の死者を出した平野丸は護衛があったにもかかわらず撃沈された。実に第一次大戦で日本の商船は33隻失った。特にイギリスは商船4000隻を失い覇権をアメリカに譲った。
 常陸丸の出航は会社にとっても家族にとっても悲壮感がでる談話となっている。
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常陸丸船員捕虜

2007年05月08日 | 福神漬
大正7年3月2日東京朝日新聞
どんな訳か東京朝日新聞は一日記事が早い。
○ 常陸丸船員は捕虜
ウォルフ号に乗船してドイツに現れた形跡 海軍省発表
常陸丸乗員はウォルフに乗船し捕虜としてドイツ国に伴われていること、事実らしくその人命等は英国捕虜係りの手を経て不日判明しうることを期待しつつあり(在英国大使館付武官来電28日海軍省)
▲ 二隻の船に収容さる △撃沈後の常陸丸乗員 
28日上海経由路透社発(ロイター?)
コペンハーゲン来電 スペイン汽船イゴツメンデ乗組員の談に曰く該汽船は7千トンの石炭を搭載し豪州に向かう途中拿捕されしものなり。該船についで敵手の罹りしは英国汽船マタンガにしてその貴重船荷及び船員はドイツ艦ウォルフに移されて艦内にて優遇されたり。こうして独艦一隻汽船二隻は一オランダ諸島に無人島にいたり。マタンガ号の船荷の一部を同島に仕舞置き、最も貴重なる貨物のみウォルフに積込み後マタンガ号を撃沈せり。その後少時にして米船ベルガを撃沈せり。又ついでアジア人を満載せる6千トンの日本郵船常陸丸を撃沈せり。常陸丸内のアジア人等はウォルフ及びイゴツメンデにそれぞれ移乗せしめたり。濠州海岸よりイゴツメンデは北を指し、独艦ウォルフは南を指して航行し居りしと
▲ ドイツ公報に現る
坂田公使報告
ドイツ公報によると常陸丸は過去15ヶ月間印度洋並びに太平洋において行動せるドイツ仮装巡洋艦ウォルフのために撃沈せられたる趣並びに同仮装巡洋艦に捕虜をも搭載し居る由、2月27日当地新聞電報に現われたるベルリンより当国外務省へはまだ回報なき趣につき前記の事項並びに乗組員の情報等電報を持って問い合わせ方皿に西国外務省へ依頼している。(在スペイン坂田公使発3月1日外務省着電)

各方面から急に常陸丸の情報が出て来る。この日の記事は日本の新聞はほとんど同じ内容となっていた。大阪の朝日新聞は号外が出ている。3月2日付け
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遺留品の福神漬木箱

2007年05月07日 | 福神漬
大正7年2月14日東京朝日新聞
なぞの品々(筑前丸がもたらし帰った)
常陸丸の遺留品の写真が掲載されている。
下駄の大きさと比較して写真にある醤油樽の大きさは一斗樽(約18リットル)だろう。写真では縦に立っているが巾着印の中に酒悦の焼印があり、東京・池之端・福神漬の文字が見える。木箱から推定すると缶詰入りの福神漬だろう。大きさから6個入りか?1号缶(1貫目入り・3.75kg)だろう。
山脇武夫日本郵船監督は「沈没・拿捕いづれともまだ断定できない、常陸丸の備品は確実である。」
日本郵船にて新聞記者に捜索の持ち帰った品々を説明していたのは山脇武夫であった。写真のある新聞記事は東京・大阪の朝日新聞に掲載されていて、読売や毎日・万朝報などは記事のみであった。
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印度洋常陸丸の遭難報道 ②

2007年05月06日 | 福神漬
大正6年10月22日東京朝日新聞
常陸丸船長夫人談
不安の面貌で「昨日東京の日本郵船の本社から常陸丸の到着の予定より遅れている旨の通知を受けて初めて承知いたしました。主人より9月14日シンガポール発信で無事この地に着いたという便りで、多分コロンボからデラゴアまで直航したものと思われますが、潜航艇が出没したことも聞かず何か機関に故障が起こったものでしょうか、それらのことも一切想像できません」
 機関長夫人談
「宅は船乗りのことですから不時の出来事は覚悟の上ですが御船客は心配でありましょう」云々とただひたすら船客の安否を気遣っていた。
 
 明治・大正時代の商船に乗組んだ人々の家族はみんな同じ気持ちであったのでしょうか?常陸丸が行方不明になって後日本の商船が次々とドイツ軍艦に狙われていて後に撃沈された平野丸の出航報道は船員・乗客に悲壮感があります。欧州航路はとにかく危険であった。しかし、日本の商船の活躍で明治以来の貿易収支が赤字から黒字となった。ちなみにイギリスは第一次大戦で4000隻の商船を失ったという。
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八阪丸船長山脇武夫氏

2007年05月05日 | 福神漬
八阪丸船長山脇武夫氏
大正4年12月1日地中海ポートサイド付近にて、日本郵船八阪丸がドイツ潜航艇によって攻撃され撃沈した。八阪丸船長山脇武夫は船の沈没を前にして、秘密書類を処分し、人は勿論小動物まで救命艇に収容し危機を脱した。
 常陸丸が大正6年8月29日横浜を出港したとき、ランチに乗って横浜港外まで見送った人の中に八阪丸船長だった山脇武夫がいた。彼はその時日本郵船で航海副監督という役員となっていた。
 印度洋で行方不明となった常陸丸を捜索するため、筑前丸を使うこととなり、日本郵船の航海副監督であった山脇武夫が乗り込んだ。
 また、この筑前丸に特攻の発案者として知られる若き日の大西滝治郎中尉(終戦時中将)捜索飛行機の操縦士官として乗船していた。
 常陸丸捜索のため、筑前松は大正6年11月27日神戸を出港し、印度洋で16日間捜索の後、翌7年2月9日神戸に帰港した。山脇は会社を代表して捜索状況を新聞記者に説明した。
 そこには漂流物の中に『東京池之端』巾着印に『酒悦』と書いてある福神漬を入れてあった木箱があった。酒悦の福神漬は郵船に積んであることは当時から知られていた。
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印度洋常陸丸の遭難報道

2007年05月04日 | 福神漬
万朝報 大正6年10月21日
常陸丸の運命
9月24日以来消息がない
コロンボ・デラゴア間で遭難か
日本郵船会社の欧州航路定期船常陸丸(6556トン)は9月25日コロンボを出汎して以来約一ヶ月経過せる今日、杳としてその消息なし,郵船会社は各方面に向かって電照し、海軍、逓信省へ各方面へ捜索願いを出していたが行方不明なり。
 軍関係者のコメント
 中部アフリカなるので危険区域でない、敵艇出没のウワサも聞かないがこうなったら憂慮に堪えない

読売新聞 大正6年10月22日
郵船航海課員談
途方に暮れている
郵船航海課員の物語る所によると『同船には老練なる船長や海軍の砲手が乗組んでいますから、万が一間違いはないと思いますが、何しろ一ヶ月ほど消息がないので途方に暮れております。まお同船は小型の方なので或いはどこかに勝手に航行しているかと思われるのですが、しかしそれにしても同船には無線電信が装置してあるのですから』と今のとこらは一縷の望みをつないでいる模様である。
海軍当局の談
浮設水雷のため
海軍当局者は言う『目下印度洋上は我海軍の努力によって敵影を見ぬ有様であるからドイツ艇のいるようなはずがない。従ってドイツ艇の襲撃を受けるはずがないがことによると浮設水雷に触れて沈んだものかとおもわれる、しかしかかることも万一なかろうと思うし、またそう希望したい。』云々と。

常陸丸は大砲を装備した武装商船であって、砲手を乗せていた。
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印度洋常陸丸事件の当時の状況

2007年05月03日 | 福神漬
日本郵船70年史 128頁
100年史には記述がない。
常陸丸の記述は3行しかない。
『常陸丸は大正6年9月26日欧州航路・往航の途次、インド洋にてドイツ仮装巡洋艦ウォルフの砲撃を受け拿捕されて、その後爆沈され、船長は自決した。』
たったこれだけである。
第一次世界大戦といってもこれだけとは富永船長の悔しさが感じる。

1917年(大正6年)第一次大戦下、ドイツ海軍が無制限潜水艦作戦を開始したが印度洋では危機が迫っているとは思われなかった。印度洋で行方不明となったのはこのような危機意識だったので油断していたのである。長谷川伸著『印度洋の常陸丸』によると、日本から欧州に向かった寄港地にドイツのスパイがおり、通報されていたのだろうと記している。
 常陸丸の行方不明が日本で新聞紙上において騒がれ始めたのは、10月22日頃からである(東京朝日新聞)。平成の現在の新聞記事と同じように関係者のコメントが載っている。この時点では情報が少なく戸惑っていた。

無制限潜水艦作戦とは、戦争状態において、潜水艦が、敵国に関係すると思われる艦艇・船舶に対して目標を限定せずに攻撃するという作戦である。ドイツのこの作戦によりアメリカが参戦し、1918年11月第一次大戦が終わる。

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すしのネタの大きさ

2007年05月02日 | 築地市場にて
NHKニュース
5月1日夕方6時からのニュースで築地市場の水産部仲卸のアンケートでほとんど全部の業者が移転に反対と報道していました。都は安全にするといってます。安心は中々得ることは難しい。科学で割り切れない人の心理です。
 今日の築地は連休明けでも市場内の渋滞無し。拍子抜けするくらいスムース。桜田門の警視庁まで渋滞したことなど夢のよう。多分2日も混雑はなく、あるとすれば外国人観光客の群れでしょう。
 5月4日は場外市場のイベントがあります。ある意味で今後の築地場外市場の将来のかかっています。横浜中華街のように築地すし屋街になるかも。築地1丁目から7丁目まで何軒あるやら。
 地方から来た荷主さんの食事の接待は寿司です。最近海外の日本食流行で魚価が上がって、寿司のネタの大きさが小さくなっている気がします。いつも食べているので解ります。
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