年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

日本缶詰協会にて ①

2007年05月17日 | 福神漬
缶詰時報 ① 創刊は大正11年(1922)
日本缶詰協会はJR有楽町駅前の有楽町電気ビル北館12階にあります。先日訪問して、『缶詰時報』の大正時代の福神漬に関する記事のコピーを貰いました。
第二巻
福神漬の昔と今
陸軍糧秣廠 丸本彰造
『なた豆はお胡子さんの耳たぼで、茄子は布袋さんのお腹を形どるなどと7種の野菜を集めて七福神、それを福神漬と名付けたもので,その昔江戸時代、上野東叡山寛永寺の坊さんが池之端の酒悦主人に廃物利用の漬物として教え、かくのごとく名付けたものである』と私は密かに伝え聞いておりましたが、今日の研究会で東京毎日新聞の鶯亭金升(永井総太郎)氏によってそれが誤りであることを初めて知りました。
 何でも氏のお話によれば福神漬の名付け親は○○珍聞(明治10年創刊,40年に廃刊した面白い新聞)の記者,梅亭金鵞先生(江戸時代名高い松亭金水先生の門人)であって先生が小石川指ヶ谷に住んで○○珍聞の編集したり、小説を書いたりしていたが、時は明治18年、時節は丁度夏の半ばころ、今から数えてまる38年前の昔、酒悦の主人が、なた豆と紫蘇と大根の三品をば、程よく味付けて缶詰にしたものを持ち来たり、これを売りたい、なんとか名付けを頼みますと開缶した。

解説 この缶詰時報は大正12年の頃で、記事によると酒悦の主人は最初から福神漬を缶詰にしていたことが解る。この当時でも上野東叡山寛永寺の話がでているので了翁禅師の話も知れていたのだろう。廃物利用とは寛永寺勧学講院で寮生に与えられたおかずは野菜クズの漬物であった。
コメント
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