海の墓標 三輪祐児著
戦時下に喪われた日本の商船
第二次大戦において日本の戦没商船2,568隻、六万数千人の船員が海の藻屑と消えた。武器、弾薬、食糧が届かず、最前線の数十万の将兵が南の島々で飢え死にしました。
日本の商船は明治初期の台湾派兵の輸送と,西南の役に軍と船会社の関係が出来た。その関係は平和な時代は旅客や物資を輸送し、外国と通商し、戦争になった時,軍の「御用船」となる日本商船の運命の始まりであった。
二代常陸丸は厳密に言うと「御用船」ではなかったかもしれないが初代常陸丸と同じ運命をたどった。
近代の戦争は物資を大量に輸送する船舶を攻撃し、その軍隊の攻撃力を削ぐことだった。日露戦争の常陸丸の撃沈もロシアの大陸へ兵員物資を輸送する日本商船を攻撃した。第一次大戦の常陸丸の撃沈も第二次大戦の日本商船への攻撃も同様な通商破壊戦争であった。撃沈された商船の物資が届かず、軍艦で物資の輸送をせざるを得ず、ますます商船隊の警備が不足となり攻撃撃沈され、更に物資不足となっていった。戦後の統計によると日本軍人の餓死・戦病死した者が非常に多い。
印度洋の常陸丸は軍の護衛もなく、後に捜索をした筑前丸は護衛があった。しかし、第一次大戦で210名の死者を出した平野丸は護衛があったにもかかわらず撃沈された。実に第一次大戦で日本の商船は33隻失った。特にイギリスは商船4000隻を失い覇権をアメリカに譲った。
常陸丸の出航は会社にとっても家族にとっても悲壮感がでる談話となっている。
戦時下に喪われた日本の商船
第二次大戦において日本の戦没商船2,568隻、六万数千人の船員が海の藻屑と消えた。武器、弾薬、食糧が届かず、最前線の数十万の将兵が南の島々で飢え死にしました。
日本の商船は明治初期の台湾派兵の輸送と,西南の役に軍と船会社の関係が出来た。その関係は平和な時代は旅客や物資を輸送し、外国と通商し、戦争になった時,軍の「御用船」となる日本商船の運命の始まりであった。
二代常陸丸は厳密に言うと「御用船」ではなかったかもしれないが初代常陸丸と同じ運命をたどった。
近代の戦争は物資を大量に輸送する船舶を攻撃し、その軍隊の攻撃力を削ぐことだった。日露戦争の常陸丸の撃沈もロシアの大陸へ兵員物資を輸送する日本商船を攻撃した。第一次大戦の常陸丸の撃沈も第二次大戦の日本商船への攻撃も同様な通商破壊戦争であった。撃沈された商船の物資が届かず、軍艦で物資の輸送をせざるを得ず、ますます商船隊の警備が不足となり攻撃撃沈され、更に物資不足となっていった。戦後の統計によると日本軍人の餓死・戦病死した者が非常に多い。
印度洋の常陸丸は軍の護衛もなく、後に捜索をした筑前丸は護衛があった。しかし、第一次大戦で210名の死者を出した平野丸は護衛があったにもかかわらず撃沈された。実に第一次大戦で日本の商船は33隻失った。特にイギリスは商船4000隻を失い覇権をアメリカに譲った。
常陸丸の出航は会社にとっても家族にとっても悲壮感がでる談話となっている。