年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

大正7年3月3日読売新聞②

2007年05月11日 | 福神漬
欧州各地から急に常陸丸の情報が届き、富永船長の死去に関して推測している。
枝原海軍省副官談
○ 責任を尽くして立派な最後
外務省及び海軍省の発表事実について語る「ドイツ公報中の文言について何等の入電もないがそれはありうべきこと認められる。初め常陸丸は砲火を交えたというがその時無線電信機を破壊されたのではあるまいか、かかる危険の際は船長は必ず無線電信を打つものであるし、その暇もないわけでもないのに今日まで全く消息が絶えていた所を見るとどうしてもそう推測される。それからボートを降ろしたということであるが、これは降伏したという意味である。それになお攻撃したということは実に非人道的な処置と言わねばならぬ。
▲ 憎むべき敵の遁辞
武者小路第二課長談
ドイツが自国の政策上常陸丸が勝手にボートを降ろした結果、多数の人命を失うにといって至ったといって、いかにも常陸丸船長の失態であるように公表しているが、常陸丸船長の遺書に記しているように人事を尽くしてなお自己の立場を明らかにして死去したことは実に堂々たる態度である。結局ドイツが自分側で十分の人命救助等を尽くさない責任を回避して、勝手にボートを降ろした云々といったと思われる。

常陸丸の捜索をした郵船本社の山脇武夫氏談
ドイツの電文中「常陸丸が勝手にボートを降ろしたため多数の人命を損ぜリ」とあるがこれは敵艦の言い訳で勝手にボートを降ろすことはあり得ることではない。ボートに乗せておいて攻撃したと思われる。富永船長は「欧州航路が如何に危険だからといっても会社がの方から止められるまで決して自分から航海をしないとことはない。あくまでもするつもりである。」

第一次大戦が終わり常陸丸の戦死者の状況がわかるまで、当時の人々は新聞記事のように考えていたのではあるまいか。捕虜として帰還した時の記事は少なく、また、昭和に入ると日本とドイツは同盟国となったため、ますます忘れさられた。郵船の社員の記録はないが印度洋に漂った福神漬の木箱が記憶に残っていて欧州航路のカレーに福神漬が提供していたのを知っていたのだろう。なお常陸丸の死者のうち船客二名ともインド人であった。インド人とカレーライスと福神漬。いかにも結びつきそうである。


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