年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

鶴見総持寺にある石碑②

2007年05月12日 | 福神漬
大正7年3月3日大阪朝日新聞
江田原少佐(東京朝日新聞は枝原)海軍省副官
○ 商船の悲しさ
ウォルフ号が先に降ろしたボートの乗員には目もくれず常陸丸に随行を命じてボートを置きざり悲しむ結果になったものと思われる。(実際は砲弾に当った。)
 ドイツが公報でボートを勝手に降ろしたため死者が多数出たというので日本側が少ない情報で色々想像している。
 日本全国の新聞が同一の論調となっている。商船を攻撃する卑怯なドイツとなっている。大正8年に捕虜の帰国と共に事実が解り常陸丸の悲劇は郵船社員しか記憶に残らず、今日に至ったのではあるまいか。常陸丸の印度洋に漂った遺留物で新聞に掲載された福神漬の木箱ははっきりと文字もわかり,郵船社員なら状況が理解していた。写真が掲載されてから約2週間後ドイツから公報が入り、捕虜となっていること知り、喜んだり、戦死者が出ていたのを知り悲しんだり、郵船社員の心の動揺は今でも容易に想像できる。

神奈川県横浜市鶴見にある総持寺には大きな常陸丸関連の石碑が鐘突き堂のそばにあり、一つは“歐州戦亂殉難會員之碑"と刻まれており,裏面には”宮崎丸“の殉難者3名,常陸丸”5名,“平野丸”43名の氏名が刻まれています。“常陸丸”富永船長の名前はありません。日本郵船株式會社郵司同友会が大正7年10月4日建立となっており,寄進者の中に山脇武夫の名前があります。大正7年10月はまだ常陸丸の捕虜となっていた大部分の人々が帰国していないのでこのような石碑となってしまったと思われる。少し遅れて建立した日本郵船会社の石碑に富永船長等常陸丸の戦死者全員の名を刻んである石碑が別にあります。
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