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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

台風の日

2013年10月16日 | 築地市場にて

雨漏り、破損した所。破損を見つけるため捜索したところ汚れが酷いので掃除。見てはいけないものを見た感じがする。あと2年半。豊洲へ行くまで見たくはなかった。
普通引越しは現状復帰義務が賃借人の義務があるが豊洲へ嫌々行くことになっている手前ごみを残して引越しとなるようだ。
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いやな台風が来た

2013年10月15日 | 築地市場にて

この時期の台風被害が野菜高騰の長期化を招きやすい。以前のように円の力で安易に輸入とは行かないだろう。農薬とか問題が知られることによって輸入のリスクが大きくなった。台風がそれればそれなりの影響もあって悩ましい。
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巷説天保水滸伝 山口瞳著から1

2013年10月14日 | 福神漬
巷説天保水滸伝 山口瞳著から
巷説天保水滸伝は著者の山口瞳氏が千葉県旭市飯岡町を尋ねるところから書き出しが始まる。飯岡助五郎が公権力の庇護の下の博徒として悪役となっているが山口氏と彼の先祖の関係から(小説血族)飯岡町に行って調べたようだ。飯岡町は江戸時代から九十九里海岸の東端にある漁港で鰯漁により魚肥生産で繁栄していた。三浦半島横須賀から飯岡に移住した飯岡助五郎は町にとっては恩人とも言える人だった。
 飯岡漁民の大量遭難で魚肥産業が崩壊の危機を迎えたとき、飯岡助五郎は三浦半島から漁民を移住させ、漁業産業を維持した。この飯沼町の外れの刑部岬下永井公園内に灯台があり、飯岡の町が一望できる。この灯台付近の地名は永井となっているが江戸時代は幕臣長井家の与力給地の一つだった。(出典船橋市史)飯岡町史によると長井家の飯岡の知行地は海蝕によって大幅に減っているという。江戸時代の飯岡の海岸線は今より何キロも先だったという。
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30度を越えた築地秋祭り

2013年10月13日 | 築地市場にて

12日の築地は30度を越え、夏のような気温だった。築地場外市場に整理人が出るくらいの人だった。本日も連休ということで波除神社の通りは観光客の人出で先が見えない状況だった。一歩市場周辺を離れると静かな町となってしまった。
 この暑さで何を期待して築地にやってくるのだろうか。築地のことを『東京の台所』といわれているが台所のある家は今では骨董的家と思える。豊洲へ行ったら『台所』が消える感じがする。
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平成22年6月9日 読売新聞記事より

2013年10月12日 | タクワン
このところ仕事が忙しく、しまった書類を捜したところ新聞記事の切抜きがあった。

江戸時代の巣鴨遺跡から炭化米の塊が出土した。この分析からこの付近では江戸の中心地から離れていたので白米を食べていない可能性があるという。精米に金がかかるためだと推測している。川越と江戸を結ぶ新河岸川水運の荷物に「尾張糠」があった。江戸での白米食から出た糠はどこにいったのか。

ブログに書いておけば後にデジタル化された新聞記事を日時を入れて図書館で検索することが出来る。
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日経10月8日の記事から 続

2013年10月11日 | 築地市場にて

築地市場が移転したあと『どうなる?』と最近よく聞かれるが今と違った風景になるだろう。それは上海にある豫園のようなものになるか横浜中華街のようになるか月島のモンジャストリートになるか『寿司』の聖地となるかは中央区と築地市場周辺に住んでいる人の意思意向となるだろうと応える事にしている。高層ビル街には築地の場外の不動産の権利関係が複雑だからなることはないだろう。特に築地場外市場内にある寺院が古い築地を残す原動力となる。浅草のような風景になる気がする。
もっとも築地場外市場内の寺院は一階が店舗で2階が事務所で3階が本堂で屋上が墓というところがある。墓から立ち昇る線香の煙があの世へ届く配慮をしているという。ロッカー墓よりマシかも知れない。
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日経10月8日の記事から

2013年10月10日 | 築地市場にて
豊洲新市場の記事があった。予定通りか遅れているかはわからないが除染工事は進んでいるようだ。東京オリンピックの開催ということでこれ以上築地の移転を遅らせることが出来なくなった。もともと市場というものは食肉とか鮮魚の部分を除くと屋根さえあれば成り立つ商売であった。世界各地にある食のマーケットではテントだけのところもある。工事が始まれば空洞の建物の完成は早いと感じる。
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築地場外市場秋祭り

2013年10月09日 | 築地市場にて

食べ-ノミクス
10月12日と13日は築地の秋祭り(場外市場)という。混むだろう。久しぶりの徹夜で築地の夜の混雑が感じることができる。色々な活動によって築地の3年後へ向かって動いているようだ。
朝から休市なのに観光客が多い。
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同定

2013年10月08日 | 福神漬

辞書によると同定とは1 同一であると見きわめること。2 生物の分類上の所属や種名を決定すること。3 単離した化学物質が何であるかを決定すること。
 江戸時代小石川等に設けられた薬草園は中国から来た文献と実際の植物が同一であるか確認する必要がありました。長崎奉行だった時、筒井政憲がオランダ船に西洋の薬草,種子のを発注している文献があります。

長崎奉行だった頃の筒井政憲
1817年-1821年
宇田川榕庵の本草学の本を読んでいたら、遠藤正治さんの文章が気になった。『本草学と洋学』
15世紀の大航海時代の以後、ヨーロッパ列強のアジア、アフリカ、新大陸へ進出したことが植物の世界的交流をもたらした。有用植物からの植物性新薬がヨーロッパからもたらされ、旧来の薬の効果を見直すようになった。豊富な植物情報が植物の分類の必要性を生じさせ、植物分類学を生ませた。薬用植物学はわが国では本草学(ほんそうがく)と呼ばれ、中国からのいわゆる漢方薬に用いられる原植物の同定(どうてい)、類似植物の国内での探索から発達したものである。

福神漬に入っている『なた豆』の効能を調べた文献がなかなか見当たらない。明治時代にはどのような効能が信じられていたか不明である。口臭を消す効能が今の新聞に宣伝となっているが明治の文献には見当たらない。
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日本武尊と聖徳太子を除くと

2013年10月07日 | キムチ
戦後発行されたお札の肖像で日本武尊と聖徳太子を除くと福神漬の色々なエピソードを調べてゆくうちに関係もしくは多少の縁がありそうだ。今は100円札の肖像であった板垣退助を調べている。通販サイトアマゾンより古書が届いた。3冊850円の自由党史である。広尾の図書館へ行く電車代の節約となる。
 明治の自由民権運動は福神漬の資料調査で気になっていたのだが調べてゆくうちにキムチの歴史の方に関係しそうである。明治18年(1885)大阪事件から朝鮮関係の本格的関係の始まりとなる。この頃の日本の葉物漬物は江戸東京では三河島菜であった。白菜が日本で本格的に栽培されたのが明治の終わり頃である。明治の中頃では日本への大陸からの留学生は少なく、キムチなどはごく稀だったと思われる。記録もまだ見つからない。
 アブラナ科の白菜は交雑しやすく、明治日本ではすぐに交雑して白菜とまるで違う野菜となった。明治の終わりころ日本で白菜の種子が安定して採取出来るようになると、その味の良さから江戸の伝統野菜であった三河島菜という漬け菜が消えてしまった。今は絵でしか見ることが出来ない。

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月島の縦長屋

2013年10月06日 | 築地市場にて

用があって深川の西濃運輸へ向かう。運転免許試験場へ行く途中、工事中の建物は全部と言ってよいくらい高層の住宅と思える。バブル期と同じかそれ以上に月島再開発が進んであとどの位昔の風景が残るのであろうか。墨田区京島とか台東区谷中と月島は戦災に合わなかった気がする。今は震災危険地域となってしまったが月島の風景の変化の激しさはどこにもない。これで相続税が大幅に上昇すると月島の縦に長い長屋だらけとなりそうだ。月島の路地猫はどこを行くのだろうか。最近築地市場の猫はとんと見かけなくなった。
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明治16年新聞紙条例と福神漬

2013年10月05日 | 福神漬
日本マスコミュニケーション史 山本文雄編
明治16年4月に改正された新聞紙条例は大幅な言論の自由を奪った。この改正で社主、編集人、印刷人の資格を制限し、保証金制度を設け、発行禁止権を拡大した。さらに発行停止後、題号を代えて出す身代わり新聞を禁止した。ことに保証金制度は新聞社の財政を牽制したため、条例公布の4月20日以降、廃刊せざるを得ない新聞が多数出た。風刺雑誌でも同様なことで團團珍聞の姉妹雑誌というべき「驥尾団子」を廃刊に追い込んだ。
 この明治16年には投書家として鶯亭金升が「驥尾団子」に度々登場している。竹葉舎昌安、総太郎昌安を含め多数の筆名で15年頃から登場している。團團珍聞が風刺雑誌として一世を風靡したのは少し前で明治16年ころには出版停止の影響を恐れて風刺力が弱くなった時期に当たる。明治16年2月11日に「全国新聞雑誌評判記」が出版され、團團社の二大雑誌に厳しい採点が下されていた。「○珍も初号から百五十から六十頃までは余程面白かった」この評判記は政府による圧迫規制が團珍、驥尾団子の生彩を奪ったことは触れていないが的外れでもなかった。
 「団団珍聞」「驥尾団子」がゆく より
新聞紙条例の改定が団珍の最盛期を閉じさせた。創刊から参加していた戯作者梅亭金鵞はこの頃客員となっていて編集から離れていたようだがどの様な思いで見ていたのだろうか。
 池之端酒悦主人が白山上に梅亭を訪ねたのはこの頃で新しい漬物の命名を依頼した時期であった。団団社の周囲の人物の経歴を追うと決して明治政府よりの人はいない。どちらかというと国粋主義の人が多かった気がする。明治の大新聞「日本」は団団社の敷地内にあった。神田雉子町32.

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夏の終わり

2013年10月04日 | 築地市場にて

昨夜の雨で気温がぐっと下がって予報では最高気温19度という。寒いくらい。ようやく秋らしい。10月初めの週は尖閣以前では築地の周辺では中国人観光客だらけだった。今では多種多様な人が築地市場駅周辺をうろうろしている。
環状2号線工事がドンドン進んでいて築地市場内の遅れが目立つ。昨日は栗が落ちていた。秋だな。東京都の詰所に届け出るには重すぎるので通過したが落とし主が戻ってきた。
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1年前は

2013年10月03日 | 築地市場にて
昨年の今頃は北海道での漬物による食中毒の影響で白菜、キャベツ等の大型重量野菜の価格低迷があった。今年は猛暑で漬物用の大型野菜が高い。
 東北の復興需要でどうやら地方の労賃が上がっているようで、配送業者の価格改定により物流変更が目立つようになってきた。安い商品でも運ぶ人にとっては同じ労賃がかかる。
 年取ると1年が進んでゆく速さは年をとるほど早くなる。ただ1日の速さは日々遅くなる気がする。
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根岸にあった八石教会(大原幽学)

2013年10月02日 | 福神漬
八石教会
荒川区の生活と福祉 荒川区福祉事業史刊行委員会
八石教会の人達は私有財産制を撤廃していて、粗衣粗食を旨としていた、男も女も一様に黒の綿服、女は無造作に結った髪に一定の櫛飾りをした。この櫛飾りを見れば八石教会の女性と知られた。池之端にあった『川しま』の主人は生粋の江戸っ子で八石教会に木櫛を納めていた。川しま主人の八石教会の思い出話。
『八石教会の人達は旧幕府をあこがれた人が多かったようで汽車も馬車もある時代に山駕籠で旅をしようとしていた人達だった。この教会を支えていた人達は質素と勤勉・博愛を主旨としていて、同時にその行動も奇妙と言えるくらい反文明の意思の強いものであった。
 根岸の地に正岡子規が住んでいたとき、斜め前の今の台東区立書道博物館のところに八石教会があった。日暮里の古老の思い出話では『たどん作りのちょん髷の一群』を見かけたという。
記録から八石教会が根岸の地に出てくるのは明治12年12月から現れて、明治35年から36年頃売却されたようだ。
明治15年6月
 東京府下金杉村186 静岡県士族佐藤為信所有地に協会設立の願い書が出て、明治17年2月頃建築されたという。

今では江戸から明治中期までの根岸の気風は残るものがないが旧幕府を慕う人達が多数住んでいた。
福神漬を語った長井総太郎少年は根岸の地に明治7年から20年代初めまで住んでいて、何か知っていただろう。ほぼ同時期に根岸党も活躍していた。また根岸に居住した正岡子規が新聞日本に所属していた時期は、神田雉子町32番地に長井総太郎(鶯亭金升)の團團珍聞と同じ敷地内に新聞日本があった。
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