ブログ雑記

感じることを、そのままに・・・

終戦記念日

2007-08-15 23:18:32 | Weblog
終戦の日の映像を見ると、玉音放送を聞いたように思うのだが果たして本当に聞いたかどうかは判然としない。
しかしその日はとても暑い日で、箪笥の上に置かれた両肩が丸くなった角型のラジオから流れる出る言葉に母が聞き入っていた情景を思い出すのだが、その話をすると決まって、それは後から話を聞いて自分の体験のように錯覚しているのだ、と揶揄される。
だがその日の疎開先の田舎の風景を鮮明に思い出すのだから、自分の体験は本当だったと確信している。

三十三才の父は召集を受け満州へ出征していた。
それでも父は運良く終戦時には高知へ帰還していて終戦間もなく疎開先へ帰ってきた。
その日も大変暑く小川で遊んでいると、軍服を着た不精ひげ面の大きなリュックを背負った人が自分の方へ歩いて来た。
声を聞く前に父だと分かった。

私の周りには戦死した人はいなかったけれど、叔父はビルマ戦線を生き抜いた数少ない帰還兵だった。
食べる物もなく累々たる死体の中での行軍は思考を麻痺させ、死ぬ事は恐怖ではなく天の助けのように思えた、と話していた。

父のいない家で母と姉弟の四人で時限爆弾の爆発に怯えて、頭から布団を被って震えていた。
夜爆発音を聞くと本当に怖かった。
耐えきれなくなって田舎の母の叔父の家へ疎開した。
母は三人の子供を抱えて大変だったに違いない。

終戦の十日前の八月五日に私の街はB29の焼夷弾爆撃を受けて灰燼に帰した。
疎開先の畑の中に隠れていても上空に飛来するB29が頭上に焼夷弾を投下するのでは、と恐怖にかられてじっと身を屈めていた。
街は真っ赤に燃え上って顔が火照るような凄まじさだった。
私の叔父が命からがら顔をすすだらけにして目をぎらぎらさせながら避難してきた。

バラックの街の家に帰った時周りは一面焼け野原で汽車も船も一望できた。

終戦時4才だった私も今年六十六才になった。
父も母ももういない。
あの悲惨な時代の思いを風化させてはいけない。