ブログ雑記

感じることを、そのままに・・・

鳥の瞬発力

2008-04-10 15:25:34 | Weblog
小雨の車道の水たまりに背筋の白い鳥が2羽嘴を水につけて何かを啄んでいた。
私の車が近付くと一羽が左にさっと避けた。
もう一羽は右へ飛び上がった。
一瞬フロントガラスに突き当たってしまうのか、とヒヤリとしたが、目前で空気を確り羽で押し上げるように羽搏いて、見えない空気の壁を蹴りあげるように一気にぐっと飛び上がって車をかわして去った。
小次郎のツバメ返しのような刹那の妙技だった。

車で走っていると時々車の前を横切って飛ぶ鳥がいるけれどまだ衝突したことはない。


名人芸

2008-04-09 18:18:41 | Weblog
昨日フェリーへ乗った。
一番前の席に座って自分が舵を握って操船している気分で、前方を見て、左右に船はいないか確認すると、ずっと遠くに右方向から進んで来る船があった。
私の判断だとこちらのフェリーが真直ぐ突き進めば前を横切って行けるとお思ったけれど、本物の船長は少し右方向へ舵を切って、前方の船に向って進み、矢張り右側優先の規則通り右の船をやり過ごしてから航跡を横切って行った。
目的港に入港して船の舫いのロープを甲板から船員さんが岸壁の人に向って、腰を捻るようにしてパット投げると、輪になったロープの先が、まるで西部劇の投げ縄のようにストンと鉄の舫い杭に掛っていた。受ける準備をしていた人はそれを確認するとさっとその場を離れて前側へ走って行った。
凄い連携作業だったがなかなかキツイ仕事に見えた。
名人芸の動作を習得しないと中々安全運航も難しいような気がした。

行き交う船が日に600とも800隻ともいわれている海峡だから25分程の距離だけれど一日に15往復もするのは大変だろう。

注意を怠ると大変な事故につながるのがよく分かる。

あのイージス艦の事故を思い出した。


電話屋に一言いいたい

2008-04-08 12:03:20 | Weblog
今電話がかかって、わざわざ立上がって受話器を取ると「○○ですがお電話の係の方はおられませんか」という。おりませんが、ご用件は、と尋ねると「呼び出し電話の料金が安くなります」と返答あり。
私の電話と違う電話会社からの勧誘でした。
電話会社を変えたいときは自分で変更するからほっておいてほしい。

通信事業者は自分達が自由に電話を使えるものだから断わりもなく一方的に電話をかけてきて、自分の商売をする。
玄関のベルは鳴らさないけれど、いきなり電話口へ呼びつけて自分の商売を仕掛ける。
押し売り以上の行為を当たり前のうように仕掛けてくる。
大企業のすることではない。
節度も何も全然ない。
不届き至極な行為だと思う。
人が用事をしていようが何をしていてもお構いなしである。
全く持って腹立たしい。
通信事業者の電話セールスは規制すべきだ。

必要があれば出向いて確り話をして変更の契約をするべきだ。
よく分からないようなことを電話口でべらべらしゃべって、うまく食いついたら釣り上げてやろうといったいった気がしてならない。

フィッシングみたいではないか。

チャールトン ヘストンの死

2008-04-08 11:37:23 | Weblog
今日の新聞にチャ−ルトンヘストンの死亡記事がでていた。
そして川内康範の死の記事もあった。
同じ時代を生きてきたものには淋しいことだ。

青春時代には毎週映画館に通っていた。
街の洋画館で上映されたものは殆ど観た。
今はもう往時の館は全て消えてしまった。
想い出の中では当時の薄汚れた館内の様子や喧噪がありありと生きている。
しかし時間の彼方に呑み込まれてしまったものは帰らない。

中学時代に胸を弾ませながら観た“若草物語”。
軋む階段を上がって入ったスカラ座(私の街の洋画館)で観た“風と共に去りぬ”。
何故か感動して五回も観た“赤い靴”などなど、切りがない・・・・

チャ−ルトンヘストンの“べンハ−”には迫りくる迫力に圧倒され、“十戒”では海が割れるシーンに息を飲んだ。
この時代のコピーには“大スペクタクル・・○○ビジョン”などの文句が踊っていた。
本当に何もかも初めての事ばかりだった。
CGのない時代の映画つくりの凄さに驚かされたものだ。
今は頭に描けるものはコンピュータを使って殆ど映像化出来てしまう。
何か本当の面白さが画面から伝わってこないように思える。
時代の流れだから仕方ないのかもしれないけれど、映画は黒澤明のように作って欲しい。

普段は自分の年は忘れてしまっているけれど、人の訃報をみると自分の年を再確認させられる。





お迎えに行きます

2008-04-06 09:41:25 | Weblog
昨晩友人たちと飲み会があった。
久し振りに中学時代や高校時代の話に花が咲いた。
俺がお前に数学を教えてやった、いや俺が英語を教えてやった。
あいつはよくできたなど成績の話が続いた。
高校も大学も入試の勉強をしたことがなかったから一寸話の輪に入り辛かった。
それにしても七十に手が届く年になるとどこの大学を出ようとあまり変わりなくなってしまった。
みんな嫁に頭が上がらなくなって、ぶつぶつ言っている。

自分を振り返ってみて、若い時代は過労死寸前のハードな仕事をこなしながら、労働組合相手の交渉に明け暮れた苦しい時を過ごしたけれど老後は本当に自分と家内と二人のゆったりとした生活を楽しんでいる。
高級官僚になった人は今も何やら機構に天下って税金を貪っている。
自分の方がづっといい暮らしをしていると自負できる。

一番幸せなのは曲りなりの健康であっても二人がなんとか恙無く過ごせて嬉しい。

友が「お迎えに行きます」いわれて「俺は頭にきた」といているのを聞いて「如何して腹が立つの」と云ってしまった。
すると一人が「お前心配なんか」とあっけらかんと言った。
彼は二度も癌の手術を受けているから、「お迎え」は彼にとっては禁句だったのだろう。
酒を飲みたばこを吸い、ゴルフをして一生懸命表向きには突っ張っているけれど内心ではいつも「お迎えがいつ来るか」と思い悩んでいるのだと思った。

辛いことだけれど・・・・これも人生だ・・

どうして気持ちがいいんだろう

2008-04-04 08:47:11 | Weblog
子供や若い女の子が手をセーターの袖の中へ入れているのをよく見ることがある。
服の袖丈が着てる人の手の長さより長すぎて手まですっぽり入ってしまったのでは、と思っていた。
ところが、服を脱ごうとして左手の親指と人差し指と中指で右手の袖口をつまんで手を袖の中へ引き入れた時、袖の中で手が束縛から解放されて、一瞬体から飛んでいってしまったような感じになった。
なんともいえない気持ちのいいこと。
袖の中に手を入れることで、何時もは少しも感じていなかった衣服が自分の体を圧迫し続けていたことを実感できる。
きっと袖口の締め付けから手首が解き放たれてほっとした感覚だと思う。

時々両手を袖の中に入れてみて、不思議な感覚を楽しんでいる。

こぶ鯛(もぶし)のころちゃん

2008-04-02 15:42:40 | Weblog

愛媛県今治市のしまなみ海道の四国への一番最後の来島海峡大橋の橋脚の所にある道の駅”よしうみ いきいき館”の循環水槽が”ころちゃん”のすみかである。
前にも一度書いたように思うけれど、久しぶりにのぞいてみると相変わらず水槽の主のように悠々と泳いでいた。
それに引き替え普通の鯛などは水流に乗って休みなくぐるぐると回遊していた。
”俎上”に上がることはない、と自覚しているのかどうか知る由もないが、水槽に近づくと私の方へ寄ってきて、いかにもお前を見ているぞ、といったような動きで水面から顔を突き出してくる。
餌をやるときっとパックと食べるだろうと思ったけれど、ちょっとそれは出来なかった。
少しグロテスクな感じもしないではないけれど本当に愛嬌がある。
そして何か意志の疎通ができるような仕草をしてくれる。

チューリップの光センサー

2008-04-02 15:09:20 | Weblog

生協で買ったチューリップがいっこうに花をつけない、と家内が首をひねっていた
恐らく中国製のギョウザのことが頭をよぎって、このチューリップも、ヒョットすると欠陥商品ではないかと、思っていたに違いない。
問い合わせると開花時期が少し遅い品種だ、との返答だったらしい。
家内も私もすっかり忘れていたので、いつも通る玄関わきにある鉢植えのチューリップは気にならなかった。
ところが突然開花したチューリップが目に飛び込んできた。
全く驚きである。
一晩で一気に成長したように感じられた。
自分の注意の散漫加減にあきれると同時に人の注意力というか意識の不確かさをあらためて思い知った。

それよりもチューリップの花は太陽の光量で閉じたり開いたりの動作をしている。
一体どんなセンサーを持っていて、そして開閉することでチューリップに何が生まれるのだろうか。
いつも思うのだけれど自然って不思議でならない。