ON  MY  WAY

60代を迷えるキツネのような男が走ります。スポーツや草花や人の姿にいやされ生きる日々を綴ります(コメント表示承認制です)

「多様性を認める」ことからの追想

2021-08-28 17:41:19 | 生き方
オリンピック、パラリンピックと相次いで行われる中で、テーマのように今回ずっと言われていることが、「多様性を認めよう」ということだ。
それぞれの開会式のオープニングセレモニーなどを通じて、とてもよいことが言われている、示されているなあと、とりあえずは受け止めたい。

この東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の森喜朗前会長は、女性に対する差別発言で辞任せざるを得なくなったから、それを反省しての単なるパフォーマンスで終わらなければいいと思っている。

この件は、時代は変わってきているが、「男だから」「女だから」ということで差別されることが、日本にはまだまだ多いということを示していた。

私自身、子どものころ、この「男」「女」のことでずいぶん苦しんだ。
世間の価値観は、男は男らしく、女は女らしくあることが求められた時代だった。

男は、たくましくなければならない。
男は、強くなければならない。
そうでなければ、男である資格はない。
大人の社会も、子どもの社会も、それが当たり前で常識だった。

だけど、体も細く、涙もろくて病弱。
走っても運動しても、勝てない女子が何人もいた。
そんな私は、周囲の男の子たちに卑下された。
「男のくせに、力が弱い」
「男のくせに、すぐ泣く」
「男のくせに、運動しても女に負ける」
「おまえは、それでも男か!?」
そう悪口を言われたりそれを理由に暴力を受けたりし続けた小学校時代だった。

なぜ、馬鹿にされ、さげすまされないといけないのか。
なぜ、悲しいときすぐに涙を流してはいけないのか。
なぜ、一生懸命やっているのに下手だと笑われ馬鹿にされなくてはいけないのか。
なぜ、弱い男ではいけないのか。

いつも心の中でそんなことを叫んでいた。

あれから50年以上がたって、ようやく「男だから女だからと言うことがおかしい」、ということが当たり前に言われるようになってきたかな、と思う。
とは言いながら、上から目線で「男だろ!?」と一方的な価値観を要求したり、「女の腐ったようなやつ」と見下したりする態度をとる輩は、まだまだ多い。
「男だ」「女だ」を言う前に、「人として」「人間として」のすごさ・すばらしさに気付ける人でありたいものだ。

オリンピックやパラリンピックは、男女関係なく、「人間として」の生きざまを見せてくれる。
「多様性を認める」には、自分にないものを見付ける目と、素直にリスペクトできる心をもつことが欠かせないと、教えてくれている。

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