夏の甲子園、第104回全国高等学校野球選手権大会は、宮城県代表の仙台育英が山口県の下関国際を破って優勝した。
104回の歴史で初めて東北地方の学校が優勝した。
俗にいう、「白河の関」越えを果たしたということになる。
数日前に、東北の高校に優勝してほしい、ということを書いたが、それが実現したわけだ。
仙台育英の主将も、監督も、優勝校にふさわしいすばらしさを見せてくれた。
主将は、優勝を決めて校歌を歌い終えた後、応援スタンドに行く前に、対戦相手の下関国際側に体を向けて、深々とお辞儀をした。
相手に対するリスペクトの精神をもっていなくては、そんなことはできない。
すばらしい行為であった。
監督もさすがだった。
優勝インタビューのコメントにしても、まず、
「宮城の皆さん、東北の皆さんおめでとうございます!!」
と、自分のことをさておいて、地元に向けて始めたのが印象深かった。
「100年開かなかった扉が開いた。多くの人の顔が浮かびました」という言葉の中には、今までの東北の高校の選手や指導者などのことも含まれているのではないかなと思った。
そして、感染症禍の中で3年間過ごしてきた3年生に対して、
「高校生活が、全部ダメだダメだと言われて、活動していてもどこかでストップがかかって止まってしまうような苦しいなかで、本当に諦めないでやってくれた」とねぎらった。
さらにすごいのは、他校に対しても感謝の言及を行っている。
「やっぱり全国の高校生のみんなが、本当によくやってくれた。例えば今日の下関国際さんもそうですが、大阪桐蔭さんとか、そういう目標になるチームがあったから、どんな時でも諦めないで、暗い中でも走っていけた。本当にすべての高校生の努力の賜物で、ただただ僕たちが最後にここに立ったというだけなので、ぜひ全国の高校生に拍手してもらえたらなと思います」
あまりにもすばらしいインタビューだったので、聴いていて涙が出た。
104年の歴史上の快挙を達成した学校の指導者にふさわしかった。
思い出せば、太田幸司投手を擁した青森県代表の三沢高校が、松山商との決勝で延長18回0-0の引き分け再試合をしたことが、私のなかでは大きな思い出として残っている。
それが、いったいいつのことだったかといえば、1969年第51回大会のことであった。
当時の私は、中学1年生であったが、その夏は世界的にも個人的にも大きな出来事があったのだ。
世界的には、7月20日に、アポロ11号の2人の宇宙飛行士が月面着陸したのだった。
テレビでは繰り返し放送していた。
その中継を見ていたのは、家ではなく福島県いわき市の母の実家だった。
母方の祖母が亡くなったので、母や弟と共に、いわき市に行っていたのだった。
そして、数週間後にも新盆ということで、連れられて行った。
盆を終えて新潟に帰るときには、当時の磐越線の列車に乗って帰ったのだが、その車中でラジオをつけて甲子園大会の決勝を聴いている人がいた。
普通ならば車中でうるさいと思うのだろうけれど、延長戦になっても0-0で決着がつかない好試合。
東北の三沢高校ががんばっているということで、乗客たちは皆、試合の推移に耳を傾けていたのだった。
結局延長18回引き分け、翌日再試合となった。
母が私に、「よかったね。明日家でゆっくり見られるね」と話しかけてきたのを覚えている。
翌日の再試合は、松山商が4-2で三沢高校に勝って、残念に思ったのだった。
だけど、きっと近いうちに東北の代表が勝ってくれるはずだ、と期待しながら。
三沢高のすぐ2年後には、小さな大投手田村の活躍で福島県の磐城高校が準優勝して、ますます東北の高校の優勝は近いと思っていたのだが…。
三沢高準優勝のとき、私は12歳。
今は、65歳。
なんと、「近いうちに優勝」の「近いうちに」が53年も後であった。
まさかこんなに時間がかかるとは、あの時は思わなかった。
今回の仙台育英の優勝によって、私自身の人生とからめて考える機会となった。
本当に長い時間を要した、「白河の関越え」であった。
104回の歴史で初めて東北地方の学校が優勝した。
俗にいう、「白河の関」越えを果たしたということになる。
数日前に、東北の高校に優勝してほしい、ということを書いたが、それが実現したわけだ。
仙台育英の主将も、監督も、優勝校にふさわしいすばらしさを見せてくれた。
主将は、優勝を決めて校歌を歌い終えた後、応援スタンドに行く前に、対戦相手の下関国際側に体を向けて、深々とお辞儀をした。
相手に対するリスペクトの精神をもっていなくては、そんなことはできない。
すばらしい行為であった。
監督もさすがだった。
優勝インタビューのコメントにしても、まず、
「宮城の皆さん、東北の皆さんおめでとうございます!!」
と、自分のことをさておいて、地元に向けて始めたのが印象深かった。
「100年開かなかった扉が開いた。多くの人の顔が浮かびました」という言葉の中には、今までの東北の高校の選手や指導者などのことも含まれているのではないかなと思った。
そして、感染症禍の中で3年間過ごしてきた3年生に対して、
「高校生活が、全部ダメだダメだと言われて、活動していてもどこかでストップがかかって止まってしまうような苦しいなかで、本当に諦めないでやってくれた」とねぎらった。
さらにすごいのは、他校に対しても感謝の言及を行っている。
「やっぱり全国の高校生のみんなが、本当によくやってくれた。例えば今日の下関国際さんもそうですが、大阪桐蔭さんとか、そういう目標になるチームがあったから、どんな時でも諦めないで、暗い中でも走っていけた。本当にすべての高校生の努力の賜物で、ただただ僕たちが最後にここに立ったというだけなので、ぜひ全国の高校生に拍手してもらえたらなと思います」
あまりにもすばらしいインタビューだったので、聴いていて涙が出た。
104年の歴史上の快挙を達成した学校の指導者にふさわしかった。
思い出せば、太田幸司投手を擁した青森県代表の三沢高校が、松山商との決勝で延長18回0-0の引き分け再試合をしたことが、私のなかでは大きな思い出として残っている。
それが、いったいいつのことだったかといえば、1969年第51回大会のことであった。
当時の私は、中学1年生であったが、その夏は世界的にも個人的にも大きな出来事があったのだ。
世界的には、7月20日に、アポロ11号の2人の宇宙飛行士が月面着陸したのだった。
テレビでは繰り返し放送していた。
その中継を見ていたのは、家ではなく福島県いわき市の母の実家だった。
母方の祖母が亡くなったので、母や弟と共に、いわき市に行っていたのだった。
そして、数週間後にも新盆ということで、連れられて行った。
盆を終えて新潟に帰るときには、当時の磐越線の列車に乗って帰ったのだが、その車中でラジオをつけて甲子園大会の決勝を聴いている人がいた。
普通ならば車中でうるさいと思うのだろうけれど、延長戦になっても0-0で決着がつかない好試合。
東北の三沢高校ががんばっているということで、乗客たちは皆、試合の推移に耳を傾けていたのだった。
結局延長18回引き分け、翌日再試合となった。
母が私に、「よかったね。明日家でゆっくり見られるね」と話しかけてきたのを覚えている。
翌日の再試合は、松山商が4-2で三沢高校に勝って、残念に思ったのだった。
だけど、きっと近いうちに東北の代表が勝ってくれるはずだ、と期待しながら。
三沢高のすぐ2年後には、小さな大投手田村の活躍で福島県の磐城高校が準優勝して、ますます東北の高校の優勝は近いと思っていたのだが…。
三沢高準優勝のとき、私は12歳。
今は、65歳。
なんと、「近いうちに優勝」の「近いうちに」が53年も後であった。
まさかこんなに時間がかかるとは、あの時は思わなかった。
今回の仙台育英の優勝によって、私自身の人生とからめて考える機会となった。
本当に長い時間を要した、「白河の関越え」であった。