わが家の庭に、イチゴが実る季節となった。
以前住んでいた家から苗を少し持ってきただけだったから、実ったら食べようなんて思いはあまりなかったのである。
それが、昨日の記事ではないが、野生化するように自分が生きていけるようにとランナーを伸ばし伸ばし、広がって行った。
その結果、今、毎日20個くらいの小さなイチゴが取れる。
以前書いたことがあったと思うが、すっぱいイチゴである。
イチゴの季節になったなあ…と思う。
イチゴの季節、といえば、昔学生の頃、堺正章が「苺の季節」という歌を歌っていたことを思い出した。
君がかわいい男の子をつれ
街を歩いているのを見ました
横にいたのが旦那さんでしょう
ペアのセーター似合っていました
こんな歌詞で始まる歌だ。
あの頃特有の、少し前の恋人との思い出を歌う歌である。
昔の恋人が、親子連れとなっている姿を見かけたわけだ。
だが、一番の、この先の歌詞は記憶に残っていない。
なのに、2番の歌詞は、どういうわけかよく記憶している。
苺の季節になると思い出すのは
二階の窓辺のちいさな鉢植え
君が花屋で買ってきたんだったね
青い苺がたくさんついてた
いつか真っ赤になったなら 二人で食べようねと言った
けれど別れの時が来て 苺は枯れたね
君を愛したわずかな月日も 青い葉っぱのままで枯れたよ
君を愛したわずかな月日も 青い葉っぱのままで枯れたよ
イチゴの季節だなあと思うと、「苺の季節になると思い出すのは…」と、この歌の2番のフレーズが思い浮かんでくるのだから、不思議なものだ。
40年以上たってもだいたい思い出せるのは、あの頃よく聞いていたからだろう。
そんなにヒットした歌でもなかったのだが、自分としては気に入っていたということだろう。
改めて調べてみると、この歌詞の作詞者は、喜多条忠。
あのかぐや姫の「神田川」や「赤ちょうちん」の作詞者だった人だ。
「苺の季節」にも、「神田川」や「赤ちょうちん」と通じる若者の悲恋、別れが描かれていたのだ。
不安定な心、将来への不安、…若者ゆえだった。
この歌の底辺に流れる哀しさが、自分は好きだったのだろうなあ…。
イチゴだけにすっぱい青春ということかな。