
ヨハネス・フェルメールの代表作「真珠の耳飾りの少女」のモデルは、一説によると召使の少女グリエット(映画ではグリート)だったと言われいる。
映画はまるでフェルメールの絵が動いているような、映像美と美術的な再現性で高く評価され、17世紀オランダ社会の雰囲気を直に見ている。あの先輩使用人のおばさんが窓辺で牛乳を注げばそのままフェルメールの「牛乳を注ぐ女」になりそうだし、窓辺の机には、「天文学者」や「地質学者」があらわれそうだ。
この映画はフェルメールの名画の背景にあるフィクションが主眼。
グリートの美的センスを見抜いたフェルメールは彼女を弟子のように遇する ようになり、二人はやがて互いに気持ちを通わせる。
10人以上と言われる子を産んだ妻はグリートほどのセンスはない。こどもはグリートにいじわるをする。あの名画の背景にそんなことがあったなんて。
フェルメールとグリート、フェルメールの妻、この三人を中心とした息詰まるような心理サスペンス。官能的な暗喩。
もはや他の登場人物の深堀りは無理だし不要だろう。(とくに肉屋の息子ピーターとグリートの淡い恋愛感情についての淡泊な描写は、この映画の不評の原因にあげられてもいるのだが)
グリートの父はタイル工場で働いたが工場の爆発で失明し失職。
グリートはフェルメール家に奉公に行くことになる。父はグリートに「これは私が描いたタイルだ」といってその一片を渡す。涙ぐむグリート。「おまえを働きに出すなんて、食べ物には気をつけなさい」と言って送り出す母。この冒頭の数分にはこの物語のエッセンスが詰め込まれている。
フェルメールは結婚を機にプロテスタントからカトリックに改宗したとも言われており、
プロテスタントであるグリートの母親が「カトリックの祈りには近づかないように」と釘をさす。
17世紀のオランダでは、カトリックとプロテスタントの間に宗教的な緊張があり、一般にプロテスタントが経済的にも優位であったと考えられます。
フェルメールは生涯を通じて経済的に安定していたわけではなかった。
これらのこともこの映画の、そしてフェルメールの生涯を見る上でとても重要な要素だ。
主演のスカーレット・ヨハンソンも次第に「真珠の耳飾りの少女」に似てくるのだが、絵の少女は日本人に近い感じがする。
AIによると少女が身に着けている青のターバンは、当時のオランダで流行していたオリエンタルな装いを反映しており、異国情緒を醸し出していて
この顔料は非常に高価で、通常は聖母マリアの衣服など、特別な場面でのみ使用されていた、という。