奄美 海風blog

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動画 奄美大島龍郷町の西郷小浜公園に建てられた「西郷隆盛 家族の像」

2024年03月25日 | 歴史 民俗

240325 奄美大島龍郷町の西郷小浜公園に建てられた「西郷隆盛 家族の像」

奄美大島龍郷町の西郷小浜公園に建てられた「西郷隆盛 家族の像」

23日、公園の竣工式があった


奄美群島日本復帰70周年・燃えるかごしま国体 相撲競技開催記念 特別講演会「奄美の相撲の歴史と民族」

2023年10月16日 | 歴史 民俗

この記事は一つ下の記事のつづきです。
燃ゆる感動かごしま国体相撲競技会開催記念
「日本一土俵が多い島 奄美大島~奄美相撲の歴史・文化~」(奄美市教育委員会主催)
9日(月)奄美川商ホール(文化センター) 
講師琉球大学名誉教授 津波(つは)高志  
メモ
奄美の相撲─その歴史と民俗 単行本 – 2018/11/27
津波 高志 (著)
世界的にも稀有な変化を遂げた奄美の相撲。沖縄と比較しながら手堅い手法で歴史と民俗を紐解く
単著に「沖縄社会民俗学ノート」「ハングルと唐辛子」「沖縄側から見た奄美の文化変容」
 
新聞によると受講者は71人 60人とも)。私の予想を大きく超えた。
沖縄の相撲との比較が面白かった。沖縄では今も「組み相撲」が残っているという。相撲の国際的比較も興味深い。(例えば韓国シルムは組み相撲でかつてはTV放送もあったほど)
相撲(に似た競技、娯楽)は、古くから世界各地に見られるのだ。
「広域相撲」「集落相撲」「個人相撲」「競技相撲」
「島相撲」「大和相撲」
「土俵」(実際には「砂俵」)「土砂俵」
「一本勝負」「三本勝負」
これらの単語を注意深く観察していくと「奄美の相撲は組み相撲から「立ち合い相撲」に変化した世界的にも稀有な事例」ということのイメージが浮かび上がるってくる。
沖縄奄美の島々での相撲の変化の推移を見れば、薩摩侵攻(1609年)が大きなポイントとなるだろう。
沖縄本島以南は、明に対して琉球国を独立国と見せかけ、奄美群島は正式には1613年より薩摩の直轄支配下となる、そうした沖縄と奄美の間の政治的線引き。
 
あとは海軍が運動不足解消の目的で甲板で行った相撲大会、そうした機会で奄美出身の若ものが本土の立ち合い相撲に出会い、優秀な成績を残す。その人たちが島に戻り立ち合い相撲を広めた、という話にもあった。
 
沖縄のキムジナーと違い奄美のケンムンは相撲が好きということにも注目したい。ケンムンまでもが好きになるほど、他ならぬ奄美の人々が相撲が好きだったのだろう。娯楽少なかったからという理由づけは、まったく当てはまらない、という話もあった。島には他にも、身近に海山川いたるところに遊びのたねはふんだんにあったのだ。
 
大相撲の力士や関取の数も多分人口比で世界的だと思う。その理由についても説明もあった。
 
相撲でこれだけ文化、民俗的、歴史的な考察ができるとは。
 
最後に質問の時間で、奄美大島では土俵が多くの場合公民館に併設されているが、そういう事例は他の地域にも例があるのかどうか、質問してみたかったのですが・・・。

秋名アラセツ ショチョガマ 重要無形民俗文化財 奄美 ヒラセマンカイ

2023年09月26日 | 歴史 民俗

↑ 今日の17時過ぎ撮影。

120922 秋名アラセツ ショチョガマ

今日の17時過ぎ撮影 平瀬まんかいは終わっていました。


大和浜の群倉(boregura) かごしまロマン街道 先々週

2023年02月11日 | 歴史 民俗

高倉(たかくら)高床式穀物倉庫

Granary(穀倉)wikipedia

A granary is a storehouse or room in a barn for threshed grain or animal feed. Ancient or primitive granaries are most often made of pottery. Granaries are often built above the ground to keep the stored food away from mice and other animals and from floods.

 

集落から少し外れたところに幾つかの倉が集まって建てられています。(群倉)
民家の火災などの被害から免れるため、あるいは作業の効率性などが理由として挙げられています。

屋根のふき替えの準備中でしょうか。

これは リュウキュウチク(琉球竹)別名 ゴザダケザサ(御座岳笹)かな。すすきより長く、丈夫で耐久性もありそう。

ーーーーーーー

wikipedia 茅(かや)は、古くから屋根材や飼肥料などに利用されてきた、イネ科あるいはイネ科およびカヤツリグサ科の草本の総称である。

 

wikipedia 茅葺(かやぶき、萱葺)とは、茅(ススキやチガヤ、ヨシ(アシ)などの総称)を材料(屋根材)にして家屋の屋根を葺くこと。またその屋根。茅葺き屋根、茅葺屋根ともいう。ただし、茅葺き屋根の一部(下地等)には稲藁や麦藁を屋根材に含むことが多い。
屋根材により茅葺(かやぶき)は藁葺(わらぶき)や草葺(くさぶき)と区別する場合がある。
英国やドイツ、北欧諸国など、世界で広く見られ、日本独特なものではない。

 

wikipedia ササ(笹、篠、筱、筿、小竹)は、イネ科タケ亜科に属する植物のうち、その茎にあたる稈(かん)を包んでいる葉鞘が枯れる時まで残るものの総称。

 

 

 

 

 


村田新八 2年前の記事(西郷どん)のつづき

2020年07月09日 | 歴史 民俗

 2年前の記事 リンク

西郷は3つ目の遠島地、沖永良部島から元治元年(1864年)、赦免され、
鹿児島へ帰還の途中、喜界島へ寄って同じ遠島人の村田新八を鹿児島へ連れ帰っている。
(無断で?よくこんなことが許されただろうか)(要研究)

村田の遠島は、西郷の一度目の奄美大島龍郷での島暮らしから
帰藩後、西郷が、有馬新七らの京都挙兵(寺田屋騒動)を扇動したとして国父久光の怒りを買い
いわば西郷に連座してとらえられたのが原因。
西郷は徳之島(のち沖永良部)、村田は喜界島に島流しとなった。

薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場(高見馬場方限)生まれの村田新八
は少年のころから同じ加治屋町山之口馬場生まれの西郷隆盛に兄事し尊王の志を抱く。

村田が西南戦争で死の直前(城山)まで「風琴」(アコーディオン?)を弾いた話は、テレビドラマ「田原坂」(1987)のシーンを覚えている。大河ドラマ「翔ぶが如く」(1990)にも出てくるという。

だが当時は、村田の遠島のことや、維新なり明治4年(1871年)、村田が西郷の推挙で宮内大丞に任命され、その年、岩倉具視遣欧使節団の一員に加わり、欧米視察に出発、(明治7年(1874年)視察から帰国)したことは知らなかった。

世界の最先端ヨーロッパで見聞を広めた村田が、ナゼ西南戦争で西郷軍にかけつけることになったのか。
(開明派の西郷への従軍は、ほかにもある。(要出典)

村田の従軍は少年時代から西郷に兄事した情実や義理だけからだろうか?

西郷の思想や国家ビジョンに共鳴して行動した側面はなかったのだろうか。

村田はイギリスの工場視察の際、労働者の労働条件や生活のあまりの過酷さに
驚いたという(要出典)

西郷も村田も奄美での薩摩藩による過酷な黒糖収奪、島民の暮らしぶりを
つぶさに見聞きし経験している。

村田はイギリスの都会の労働者と、自然に囲まれた南の島でつらいとは言え
テゲテゲのらりくらりがゆるされた島んちゅの実態を比べてみたのではなかろうか。
(要校正)最期まで西郷は農本主義の考えがあったと言われる(要出典)


191202 奄美大島北部東シナ海側ドライブ 動画de蘊蓄 宇喜多秀家 亀井茲矩

2019年12月03日 | 歴史 民俗

191202 奄美大島北部東シナ海側ドライブ

宇喜多秀家は、戦国のイケメン智将。正室・豪姫は、
あの前田利家の四女。豊臣秀吉の養女でもあり、これまた美人の誉れ高い。

秀家は(元亀3年(1572年)、備前国岡山城主の宇喜多直家の次男として生まれる。

その10年後に、来年の大河ドラマの主人公明智光秀による「本能寺の変」が起こっている。

天正9年(1581年)に父・直家が病死し、翌年、信長によって本領を安堵され、家督を継いだ。
つまり10歳そこそこで大名になっている。

また秀家は、末期豊臣政権下の五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)の一人で、家督を継いだ幼少時から終始秀吉に重用されていたという。

五大老というわりには知名度は高くないが、まるドラマのような人生をスタートした宇喜多秀家。奄美との関連は?・・(続きは動画で)


島津発祥の地

2019年11月08日 | 歴史 民俗

宮崎県都城市の「島津発祥まつり」は今年で12回目を迎えるという。
世に発祥地論争は絶えないが、うろ覚えで鹿児島県出水市とのあいだで「島津発祥」
の論争があったと記憶していた。
しかし、2008年大河ドラマ「篤姫」の放送で、
誤って島津氏発祥の地を出水市と紹介され、
これに都城市が抗議した、ということらしい。
(出水市は主張したことはないという)
「発祥地」の定義によっては、京都や鎌倉も候補になるだろう、という話もあるし。
詳しくは島津荘(しまづのしょう)などで検索。
都城島津邸(宮崎県都城市早鈴町←宮から始まる漢字ひとつひとつに歴史のロマンが感じられるし、実際の町並みにもそれが感じた)

「2019島津発祥まつり」
2019年11月23日(土)
開催時間
11:00~17:00
場所
九州 宮崎県 都城島津邸、神柱公園、狭野神社周辺
(最新情報をご確認ください)

 


8本柱の高倉 龍郷町(浦)とおしめ公園 

2019年04月04日 | 歴史 民俗

先月の撮影 以下同じ 公園の展示物です。高倉 8本柱 などで、検索すると、この倉の去年8年ぶりの葺き替えの記事が見つかります。

高倉(たかくら)コトバンク:建物の床を高くし、柱で支える構造の倉。ネズミの害や湿気などを防ぐ。現在でも奄美群島や東南アジアなどにみられる。

 

普通は4本 ↓


25日放送「西郷どん」第44回「士族たちの動乱」平均視聴率は12.4% 。前回「さらば、東京」 より0.8Pアップ

2018年11月27日 | 歴史 民俗
25日放送「西郷どん」第44回「士族たちの動乱」平均視聴率は12.4% 。前回「さらば、東京」
より0.8Pアップ
 
タイトルからはメインのはずの佐賀の乱。江藤新平は、あっさり描かれた印象。
代わりに?私学校建設へ向け桐野利秋、そして次回「西郷立つ」へ向けてか、洋行帰りの村田新八、川路利良(日本警察父)らがクローズアップされた。
西南戦争をにらみ、西郷の妻糸どんのセリフが、結局は今回の圧巻だった。
西郷に立ち上がるよう、西郷の留守宅に大勢を引き連れ、押し掛けた人斬り半次郎こと桐野利秋に、
「勝手なことを言わんでくいやい、私には政(まつりごと)のことは、ようわかりもはん。じゃっどん、腹が立ってしかたがなか。旦那さあは今まで、国をつくるために、わき目もふらず
走ってこられもした。そいだけは、私にもよう分かりもす。
そいを、ずっと近くで見てこられた皆さあが、今度は自分で走る番じゃなかとですか!。どうかお引き取りを」と毅然と言い放つ。
一同、ぐうのねも出ず、立ち去る。
それに比べ、後半のシーン。
いつまでも動かない西郷に失望の色をあらわにし、江藤新平同様、西郷の前を立ち去った人斬り半次郎こと桐野利秋が再び現れ、銃を持つ大勢の私学校生を刀で次々のなぎ倒し、
銃までも真っ二つに切ってしまう剣のすご腕を披露する。大暴れだ。薩摩示現流の猿叫(えんきょう)が飛び交う。江戸暮らしの藩主・斉興(斉彬・久光の父)が、嫌ったという鶏を絞めるときの鳴き声のような、あれだ。

そして、皆に向かってこう言い放つ。
「よかかっ!銃や大砲には弾が要る。弾が切れれば、剣で戦うしかなか。戦場で最後まで生き残るっとは、剣の強かもんじゃ!わかったかあ!」

これを西郷は、頼もし気に、受け入れてしまう。
西郷の後ろには、喜界島から西郷が独断で鹿児島に連れ帰りった、村田新八が不安げな表情で立っている。
洋行帰りで、美術を愛し、また音楽を好み、和歌も漢詩もたしなんだという才人の村田は、血気にはやる、この人斬り半次郎と西南戦争の現場でどのように折り合いをつけたのだろうか。
他にも西郷の矛盾?は、さりげなく描かれているような気がした。
糸どんのセリフも、桐野のセリフも次回「西郷立つ」をにらんで考えると意味深長だ。
その後の歴史を見る上でも、というと大袈裟すぎか。
 
=========関連記事 このブログ

18日放送の『西郷どん』第43回「さらば、東京」視聴率11.6%

2018年11月20日 | 歴史 民俗
18日放送の『西郷どん』第43回「さらば、東京」視聴率11.6%
 
岩倉も西郷も大久保も、教科書なでみる風貌に
実に似ているものだと感心した。
西郷などは、歩く時の首や片の曲がり具合までどこかで見たような絵と似ている。
見たこともないはずだのに、歩くときの歩幅、足の運び方まで、そっくりの姿に思えるから不思議だ。役者とはすごいものだと思う。
ビジュアルだけでなく、西郷と大久保、木戸らの意見や気持ちなども
これまでの単純明快で杓子定規な理解に揺さぶりをかける、いい出来だったのなではなかろうか。視聴率が伸びないのだが、それはもう、あまり悲観することではないと思った。
====
11日放送「西郷どん」第42回「両雄激突」は11.3%
 
 
あまり知られていないようですが、
現在の天城町岡前集落に居住していた島役人、琉仲為の養子。琉仲祐(りゅう・なかゆう と読むという)のことです。
奄美の島民は二字姓を禁じられていたが、西郷は禁をやぶって、のちに「徳嶋」の姓を仲祐に贈っている。

写真と記事は関係ありません。

 


「西郷どん」第41回『新しき国へ』 平均視聴率は前回「波乱の新政府」から0.1P微増の11.8%

2018年11月10日 | 歴史 民俗

11月4日放送「西郷どん」第41回『新しき国へ』

Youtube で見る→ https://youtu.be/HtyjA4IeEew

『西郷どん』の第41回「新しき国へ」平均視聴率は前回「波乱の新政府」から0.1P微増の11.8%
 
 
もう忘年会の声をきこえるほどになっても、ニュースレビューなどでは低評価が目立つ「西郷どん」だが、ま、新しい西郷隆盛を描くのだから、見るほうも見方をかえる必要があるだろう。私はけっこう楽しんでみている。
「歴史」にこだわると不満も高まるだろうが、
これまでの回でも一対一のセリフでは、歴史の新しい知見も取り入れられていて、なかなか見せ場が多かったと思う。
今回は、西郷と大久保よりも、西郷と久光の対話がよかった。
相変わらず久光は、バカ殿風の顔芸で描かれるが、久光は兄斉彬も認める学識があり、詩歌をたしなみ歴史の編纂にもあたった。
斉彬と比較すると、目立たないが維新に久光の果たした歴史的意義も大きい。
それらを加味してみると、西郷と大久保、斉彬の関係より、西郷と久光の関係もまた、たいへん興味深いものがある。
久光「こいがお前が我が兄斉彬と共につくりたかった新しか国かぁ?」
久光の表情豊かな”顔”もみどころだ。
声も出ないはずの西郷だが、申し訳ないと「このままでは(みなに)顔向けが出来もはん」と消沈する。その頭上から「こんやっせんぼうがあ」
と斉彬の口癖の一喝がふりそそぐ。
死ぬまでチョンマゲを切らなかったという久光の暖かい激励の言葉に、また声を失う西郷。
これはなかなかの名場面だ、↑の動画でも見ることができる。
久光は西南戦争のときも西郷の好きにさせている。けっこう理解しているのだ。
「やっせんぼうがぁ」のセリフは久光を演じる青木崇高のアドリブだというから驚きだ。西郷 久光 斉彬の関係が立体的に理解できる。
あと、糸どんと菊次郎の一対一の会話も歴史流れを離れても、よかった。
島の母、愛加那の気持ちを思いながら見ると、泣ける、だろう。
菊次郎は17歳で西南戦争に従軍し、右足膝下から切断の重傷を負うが、10年後アメリカまで留学に出ている。
 
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10月28日放送「西郷(せご)どん」第40回「波乱の新政府」の平均視聴率は11.7%

2018年11月04日 | 歴史 民俗
10月28日放送「西郷(せご)どん」第40回「波乱の新政府」の平均視聴率は11.7%(関東地区)だった。前回「父、西郷隆盛」より0.6Pダウン。
「廃藩置県」断行のため大久保は、鹿児島に帰った西郷と、国父久光を新政府に引き入れようと画策する。
大久保の意向に賛同し上京した西郷が目にしたのは「波乱の新政府」。
西郷は贅沢三昧する政府メンバーに不信ををいだき眉をひそめめ、高級西洋料理で昼食をとる会食の席へ握り飯を持参するという具合の展開だった。
 
当時の政府高官は現在のお金で月収2~3千万円、年収3億円くらいもらっていた(西郷どんスペシャル第3弾! 西郷と大久保 明治に挑んだそれぞれの道 10月20日(土)放送 )
大久保も西郷もすべて私的に使っていたわけではなく、特に大久保は公のために使い逆に多額の借金を残したという話はけっこう有名だ。
 
今回は、いいセリフもあった。素人目には廃藩置県こそ実質的な無血革命だったという見方もあってメインイベント的盛り上がりも期待できた。しかしやはりドラマとしては話が面白くなかったので低視聴率を予想したがそうでもなかった。
 
回ごとの話の継続性があまりなく、出演者の多くが入れ替わるので、まあ漫然と見ているだけでは、次回も見ようという意欲もそがれてしまうのではないだろうか。
 
こんな廃藩置県(明治4年7月14日(1871年8月29日)からわずか4ケ月足らずで
岩倉遣欧使節団(明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年)が出発するのだから、忙しすぎるのだろう。のんびり描く時間はないのかも知れない。